梅毒の研究には、主にウサギが充てられた。
むろん、実験動物としてである。それもただ病原体を射ち込んだだけではうまく感染しないから、態々睾丸に注射する。
想像するだに血の気の引くような話だが、それでもまだ狂犬病の実験に使われるよりかはマシだろう。なにしろこちらは頭蓋に穴を開けられて、脳内に直接病毒を流し込まされる破目となる。
この施術を編み出したのは、「近代細菌学の開祖」の呼び名も高いルイ・パスツール。耳にするだに戦慄を禁じ得ない残酷さだが、しかしながらその「残酷なこと」を敢えてしなくば彼が狂犬病ワクチンを見つけ出すのは不可能だったに違いなく、もしそうなれば必然として更に多くの人命が損なわれていたことだろう。
所詮、世界とは悲劇なのだ。
犠牲を伴わぬ進歩なぞ絵空事に過ぎない以上、このことに関しては深く考えるべきではないかもしれない。伝染病研究所所属、福島伴次はその著書である『細菌の科学』に於いて、このあたりの消息を以下の如くに述べている。
…実に多数の動物が毎日々々我等人類の福祉増進の為に斃死し、撲殺されて行くのである。然し我々は、その間に於けるむごたらしい疾病に罹患せられ、或は撲殺される動物にも、大きな同情をもって感謝しては居るのであるが、少しも動物から怨みを買ふ様な筋合はないのであって、動物の怨霊に祟られるといふ迷信も起らないのである。が、動物と雖も生を地球上に得て居る以上、私利私欲の為に濫りに犠牲にしては化けて出るかもしれないが、結果はともあれ、大きな人類愛の犠牲にされる事は、かへって動物自身の名誉でもあらうと考へて居る。(146頁)
実験動物に対して人がとるべき態度とは、つまりまったくこれでよいのだ。
閑話休題。
冒頭の方法によって首尾よく梅毒に感染し、睾丸を腫らしたウサギを用い、あるとき一つの実験が執り行われた。
その内容はこの耳の大きないきものを、首だけ出して50℃の湯に一時間ほど浸けておくというものであり。ウサギ鍋を作るには少々温度が足りないとはいえ、生体に与える影響は甚大であり、浴槽から出されて後は40℃近い発熱を起こすのが常だった。
以上の処置を、二・三度に亘って繰り返す。するとどうであろう、いつしか睾丸の腫れはまったく治癒して、その後の経過を観察しても再発の兆しが訪れない。
もっともリンパ腺を探ってみると未だ病原体が潜んでいるのが確認可能で、根治したとはとても言えない。が、目に見える症状自体はあからさまに軽くなる。
この実験結果はある意味に於いて、草津温泉の権威を裏付けするものだった。硫黄の臭気で満たされたこの湯治場が古来より、梅毒治療に効果があると喧伝されて、鼻が取れたり目がつぶれたり、凄まじい姿と成り果てた病人たちが救いを求めるようにして脚を運んだ土地というのは周知の事実。その看板が偽物ではなかったと、如実に証明されたわけなのだから。
発熱と梅毒との間に蟠る、ある種特別なこの関係を更に突き詰め研究したのがオーストリアのユリウス・ワーグナー博士。彼はやがて梅毒患者を意図的にマラリアに感染させることにより、その高熱で梅毒を根治せしめる術を確立。以上の功績が認められ、1927年、ノーベル生理学・医学賞を受賞した。
「毒を以て毒を制す」方式は、二十世紀に至っても変わらず有効であったらしい。
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