穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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黒田清隆の配偶者・後編 ―小人の妬心、恐るべし―

 

 実に多くの東京市民が、彼と、彼の邸宅に、羨望のまなざしを送ったものだ。


 材木商、丸山傳右衛門のことである。


 ときに金閣寺まがい」と揶揄されもしたその屋敷の結構は、山本笑月『明治世相百話』に於いて特に詳しい。

 


建坪はさまで広くないが総て唐木造り、一階大広間の九尺床は目の覚めるような紅花櫚の一枚板、左右一丈二尺余の大柱は世にも珍しい鉄刀木の尺角、上から下まで精密な山水の総彫、多分は堀田瑞松あたりの仕事であろう。この柱一本で立派な邸宅が建つという代物。左右のわき床は紫檀黒檀の棚板、三方の大障子は花櫚の亀甲組白絹張りで、開閉にも重いくらいの頑丈造り、一間幅の回り縁は欅の厚板、天井は三尺角樟の格天井、いや全くお話ですぞ。

 

 

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(明治十九年以前の金閣寺

 


 如何に富強といえど、商人がこれほどの豪邸を拵えるなど、門構えひとつにすら一々厳格な規定のあった江戸時代では考えられぬ、新政府治下ならではの、ある意味維新を象徴する建造物であったろう。


 そんな場所へ、維新回天の功労者たる黒田清隆が足を運ぶ。見ようによってはこれほど相応しい組み合わせもない。


 訪問の目的が、何であったかは定かでない。評判の四層望楼が気になっての物見遊山だったとも、傳右衛門に金を借りに行ったのだとも、色々だ。


 が、玄関にて靴を脱ぎ、座敷にあがってもてなしを受けたときにはもう、本来の用向きなどこの男の脳内から影も形もなくなっていたのは確からしい。


(美しい。――)


 給仕役として黒田の側につけられたのは、傳右衛門自慢の愛娘丸山滝子その人である。


 舞の上手であったことも、おそらく無関係ではないだろう。しなやかでそつ・・のない動作の中に、さりげなく香る婀娜あだっぽさ。滝子の魅力に、黒田はたちまちグニャグニャになった。


 その日のうちに滝子を馬車に積み込んで、連れて帰ってしまったとの噺さえも残されている。

 

 

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 真偽のほどはわからない。


 しかしまあ、仮に即刻連れて帰りたいと言われたところで、傳右衛門は断らなかったことだろう。


 むしろえたり・・・とほくそ笑んだに違いないのだ。彼は端から黒田に滝子を縁づかせる心算であった。そうでなければいったい誰が、手間暇かけて蝶よ花よと育て上げた大事な娘に給仕の真似事などさせるであろうか。


 とんとん拍子に話は進み、例の明治十三年十二月十二日、二人は結婚。滝子は黒田滝子となる。


 結婚式の仕度には、黒田邸から馬車が十七台も来たそうだ。


 清隆が如何にこの嫁に入れ込んでいたかよくわかる。


 が、この後妻との関係も、やがては思わぬ蹉跌に嵌り込むというのだから、あるいは清隆という男には女難の相が生まれつき備わっていたのかもしれない。


 淵源は、生家である丸山家の没落にこそ見出せる。


 それは極めて意外な方面からやって来た。左様、文字通り「やって」「来た」のである。


 宮内省内匠寮に籍を置く官吏数名――この一団がある日のこと、気晴らしがてら深川あたりをぶらぶら散歩し、その途上、


 ――折角ここまで来たのだから。


 かの有名な「丸山の金閣」を拝んでから帰ろうぜ、と。


 誰はともなく言い出して、いいねえ、行こう行こうという流れになった。

 

 

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小泉癸巳男 「深川木場問屋町」)

 


 ところが実際に訪ねてみるとどうであろう。既に黒田の里方として政商の地位を確立し、たいへん鼻息の荒くなっていた丸山家では、この連中を「小役人」と頭ごなしに決めつけて、


 ――何を寝言ほざいてやがる。


 顔を洗って出直せと言わんばかりの乱暴さで、さっさと叩き返してしまった。


 門前払いといっていい。


(おのれ)


 当たり前だが、官僚たちは意趣を抱いた。


 この怨み晴らさでおくべきか、と、奥歯をきりきり鳴らせるほどに憎悪した。


 果たして天は彼らに対し微笑んだ。ちょうどその頃、明治六年の失火により焼失した江戸城西の丸御殿に代わる新たな皇居御造営の儀が正式に決定していたのである。

 

 

Square of Meiji Palace

 (Wikipediaより、明治宮殿)

 


 丸山家では当然この大事業を委任されるものとして、既に大量の材木を確保すべく働いていた。


(そうはさせるか)


 内匠寮の復讐者たちは、この大命を絶対に丸山づれ・・に仰せつけられることなきように、おそるべき運動を開始した。


 各員が各員の持ち得るツテをあらん限り動員し、まさに百方運動の有り様を現出。妨害工作に努めた結果、ついに念願叶って丸山を皇居御造営から切り離すことに成功している。


 まこと、世に小人の妬心ほど厄介なものはないであろう。蟻の穴から堤も崩れる。ORCA旅団のメルツェルは、流石に真理をついていた。


 本懐を遂げた「小人ども」は、


(ざまをみよ)


 さぞ鼻高々であったろう。


 事実、傳右衛門は地獄を見た。


「話が違うではありませぬか」


 と、いくら清隆に泣き付いたところでもう遅い。このとき彼が開けた負債の額は、低く見積もっても三十万円に届くと云われる。


 明治初頭の三十万は、現代貨幣価値に換算しておよそ六十億円にも相当しよう。

 

 

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 これが契機となって丸山は坂を転がり落ちるように没落し、明治十八年、ついに破産閉店の憂き目を見ている。


 江戸時代から続く老舗の、あまりにも呆気ない終焉だった。


 この没落は、滝子の精神にも一方ならぬ負荷をかけたものらしい。実家の危機を救わなかった夫への不満、このあたりの構図は、なにやら徳川家康と築山殿の関係を彷彿として趣深い。人間とは時を移し場所を変えても、結局同じような悲喜劇を演ずるものだとしみじみ思う。


 もっとも黒田清隆の場合、家康ほど異常な別れを経験せずには済んでいる。というより、なにごとかが起きる前にこの人は、脳の血管を詰まらせて死んでしまった。


 多年の飲酒が災いしたものだろう。


 未亡人となった滝子は、そう間を置かず紛失物取調の役儀で家に出入りした某警官と桃色遊戯を営んだとかで、黒田の家を追われている。


 明治三十九年になってから、我が子の引き渡しを求めて黒田家に訴えを起こしたが、むなしかった。

 

 

Countess kuroda takiko

 (Wikipediaより、黒田滝子)

 


 傳右衛門ご自慢の「金閣寺擬い」はその後浅草花屋敷に移された。「奥山閣」命名して一般の観覧に供したところ、たいへんな盛況で、長く当園の目玉であったが、関東大震災の猛火からは逃れ得ず、ついに灰と化している。


 兵どもが夢の跡。近代社会はスピード社会、栄枯盛衰、有為転変も実に激しい。


 つまりはそういうことなのだ。

 

 

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  • 作者:山本 笑月
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