売れぬ日もなし
造船所
戦後まもなくの日立造船所を題材にした歌である。
宝井其角の古川柳、
うれぬ日はなし
江戸の春
を、あからさまに
それにしても
軍の解体ばかりではない。マッカーサー・ラインの制定、船舶保有量150万総トン以下方針――煩雑の弊に陥るゆえ詳述は避けるが、敗北した日本は、その代償としてありとあらゆる権利を縛られ、まったく
およそ島国にとってこれほどみじめな境遇もない。
海運の立ち直りは絶望的、遠洋漁業も遠き日の夢。このような悲惨な状況で、造船所にお呼びがかかる道理もなかろう。日立造船所八代目社長・松原
「暗黒時代」
「造船界の最苦難期」
と万感籠めて述べている。
昨日までは一億総蹶起、産業報国などと威勢のよいスローガンを掲げ、増産増産と励ましていたものが、その日から、鉸鋲のひびき、鉄槌の音もぱったり絶えて、造船所のなすべき仕事もほとんどなくなった大きな工場は、まことに火の消えたさびしさとなったのである。加うるに進駐軍の上陸におびえる種々の流言蜚語、あられもないデマさえ飛んで、今から思えばまことに寒心すべき状態であった。(『財人随想』318~319頁)
とまれ、折角の設備を腐らせておくのは勿体ない。
第一このまま拱手傍観していれば、四万からなる従業員が飢えて死ぬ。やれることは、なんであろうとするべきだ。
そう思い切り松原は、およそ造船所の機能とは遠く離れた業務にさえも手を延ばす。ミシンの製造だってやったし、梵鐘を鋳たのもその一環だ。
知っての通り、大東亜戦争中の日本は資源不足を補うために、一般家庭の鍋釜さえも取り立てた。
釣鐘のようなデカブツが当然見逃される筈もなく、金属類回収令の名の下に容赦なく徴発、熔かされて、兵器に生まれ変わったものである。
(Wikipediaより、金属回収)
さて、いざ戦争が終わってみると。鐘楼とは名ばかりのがらんどうの寂しさが如何にも目につき、吹き抜ける風が冷たくてならず、この空白をどうにかして埋めたいと、梵鐘復旧の気運が各地に於いて盛り上がる。
松原は、敏感に反応した。
夥しきこの需要、是非とも我が手に収めざらめや。
まず梵鐘について、科学、考古学、宗教等の立場から、各界権威者の意見をきき、形態、音響その他について、種々の研究をとげて試作したのであるが、これが予想外の好成績を収め、その出来栄えは古来の名鐘にもまさる記録をつくったので、たちまち注文が殺到し思わぬ梵鐘景気を招来したのである。(319~320頁)
日立造船所が製作した梵鐘の数は、ざっと見積もって数百個に達するという。
なるほど「鐘一つ売れぬ日もなし」と歌われるのも納得だ。どうも品質も上等らしいし、ひょっとするとこのとき鋳られた梵鐘は、今も日本全国津々浦々で撞木に突かれ、静かな響きを伝え続けているかもしれない。
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