「どうも、ちかごろの連中は」
カネの扱いが粗末でいかんと、楚人冠が吼えていた。
狭いガマ口に突っ込めるよう、屏風折りに折り畳まれた紙幣の数々。ごくありふれた生活上の創意工夫が、しかしこの偏屈漢には無性に癪に障ったらしい。一見些末に思えるが、こういうことからカネを軽んずる気風が生まれ、貯蓄を忘れて奢侈奔逸に流れるのだと、どんどん話を膨らませてゆく。
(Wikipediaより、がま口財布)
なるほど確かに、古人のカネの取り扱いは丁重をきわめたものだった。
特に江戸期の小判に於いてはその傾向が顕著であって、綿に包んで桐箱に入れ、滅多に人目に触れぬよう、薄暗い場所に秘め置くこともあながち少なくなかったらしい。こうなるともう、カネを扱っているんだか御神体を祀っているのか、一寸判然としなくなる。
が、「根」の部分には割と切実な理由があった。
墨判を守るための措置なのである。
墨判とは、墨で以って貨幣の表に金高及び鋳造主管者の名前・花押・等々を書き記したものであり、これが薄れて消えたりするとその貨幣は貨幣としての価値を喪失、市場に通用しなくなる。
価値を復活させるには、金座――後藤家のもとに持ってゆき、若干の手数料を支払って書き直してもらう必要がある。この「若干の手数料」を支払いたくない一心で、人々は小判の保存に神経を尖らせたというわけだ。
(Wikipediaより、慶長大判)
――斯くも尊貴な大判小判が。
家重代の塚の下からザックザックと掘り出されたと、まるで「日本昔ばなし」のオチのような情景が、しかし昭和の聖代に於いて現に演ぜられたことがある。
新潟県北魚沼郡川口村字牛ヶ首の旧家星野徳右衛門氏方に先祖から伝はる記録に「家屋、宅地、田畑等を売却しても、なかなか先祖の塚を売るな、そんな羽目になった場合は塚を掘れよ」とある。(中略)発掘を行ったら、地下六尺のところから一個の甕が出て、中に大判小判小粒など約一貫目しまって居た。(昭和七年、井上吉次郎著『金の社会学』24頁)
ナヒーモフ号引き揚げ事業に代表される、昭和初頭の日本を狂奔させた黄金熱。
前にも触れた例のブームの「火付け役」として、この星野徳右衛門氏の一件も少なからず影響していたようである。
以上、大地のおよそ九割が「金」で出来ているという、途轍もない鉱山がコンゴ南部で見つかったとの報せを受けて、衝動のまま書いてみた。
黄金の尊さ・素晴らしさを語るのに、余計な理屈は必要あるまい。羨ましいと素直に言おう。私も一生に一度くらいは、金貨の海で泳いでみたいものである。
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