穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

屯田兵の記憶 ―会津藩士・安孫子倫彦―


 明治八年、最初の屯田兵たちが北海道の地を踏んだ。


 青森県より旧会津藩士四十九戸、宮城県より仙台士族九十三戸、山形県より庄内士族八戸、その他松前士族等々、合計百九十八戸に及ぶ人間集団が青森港から小樽の港に渡ったのである。


 その中に、孫子倫彦の姿もあった。

 

 

(小樽港)

 


 旧会津藩士四十九戸の中の一。十一歳の幼さで二本松城の陥落にまみえ、故郷を焼け出される辛さを味わい、戦後は戦後で下北半島、本州に於ける「北の果て」に移されて、死ぬような苦労を重ね続けた人物である。


 戊辰の際には元服前の前髪だったこの彼も、明治八年ともなると十九歳の立派な青年。


 屯田兵の応募資格――「満十八歳以上三十五歳以下の士族」を十分満たしていたわけだ。


 小樽から銭函を経て、入植地である琴似村に到着し、兵屋に入った第一印象が興味深い。

 


…家屋内には農具、寝具や家具、其他の諸道具などの給与品が整然と配給せられ障子は新しく畳も新しくあったので、私共旧会津藩の者は戊辰の役に祖先永住の故郷より追ひ出され困難に困難を重ね来ったので茲に八年振りで官給ではあるが自分の家に今日より起居出来るかと思ふと本当に安堵と喜びに堪へなかった次第であった。(『北海道郷土史研究』189頁)

 

 

屯田兵屋)

 


 これはそのまま、下北半島での生活が如何に苛酷で人間の生存に適さぬものであったか如実に物語っている。


「ある明治人」、陸軍大将柴五郎会津藩士の出身で、下北半島移住時は「伏するに褥なく、耕すに鍬なく、まこと乞食にも劣る有様にて、草の根を噛み、氷点下二十度の寒風に蓆を張りて生きながらえ」たと著書にあるが、この情景は安孫子倫彦にとっても他人事ではなかったようだ。


 そりゃあ屯田兵屋で人心地もつくだろう。

 

 

 


 屯田兵の暮らしぶり、その実態を探る上でも、安孫子倫彦の証言は極めて貴重といっていい。

 


 未開地の開墾に当っては――毎朝起床喇叭で一整に起床し、次で集合喇叭で農装して中隊事務所(当時週番所と称せり)に集合して人員点呼を受けて指揮官に引率せられ現場に至り、喇叭の命令で共同に開墾をなしたのである。開墾するには全員が一列横隊になり全員が約五尺巾位の間を置いて並列し「掛れ」の号令で一斉に着手し唐鍬を以て荒地を開いて行くのである。(190頁)

 


 当たり前だが、何から何まで軍隊式だ。

 


 指揮官は将校下士で故永山将軍は当時少佐で時々現場に臨んで懇切に指導せられたが、指揮教導する人々も指導を受くるわれわれもいづれも農業には無経験の人々であったので、今から当時を観ると甚だ幼稚な事が多かった様に思はれるのである。(同上)

 


 冷汗三斗の思いであろう。


 あれやこれやひっくるめて、よく生き延びたものである。

 

 

(琴似屯田村)

 


 明治二十四年、屯田司令部は将校補充の目的で各中隊から三名ずつを選抜し、札幌農学校兵学科別科生として入学せしめた。


 このとき琴似村から選ばれたのが、牧野清作と伊藤能道、そして安孫子倫彦その人だった。


 最終的には中尉にまで進んだらしい。


『北海道郷土史研究』が出版された昭和七年段階で、牧野・伊藤両氏ともに既に亡く、「他の中隊から入学せられた人々も多くは故人となり現在は川下元男中尉と私の二人が生残って居るのみである」――「そろそろ俺の番かな」との雰囲気を安孫子は言外に漂わせている。

 

 

(安孫子倫彦)

 


 ところがどっこい、死神はなかなか彼のもとを訪れなかった。いざ枕元に立ったのは、これから更に十年以上も後のこと。昭和十八年のお迎えまで、八十四歳の高齢を安孫子倫彦は保つのだ。


 青少年期の艱難辛苦、西南戦争日清戦争日露戦争への従軍。寿命を縮める諸々の要素にも拘らず、ここまで永らえられたのは、いっそ神秘の域である。


 札幌市西区役所の前庭には、彼の揮毫ふでによる「陸軍屯田兵第一大隊本部之趾」の記念碑が、今も遺っているという。

 

 

 

 

 


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