「いま、お酒を呑んでおいでですか。あなたは酔うとおかしくなる方だそうで……」
怪傑杉山茂丸が、黒田清隆と初めて顔を合わせた席で、劈頭一番放った台詞がこれである。
この薩人の酒癖の悪さがどれほど人口に膾炙されきっていたか、如実に示すエピソードに違いない。
「なにせあれは、自分の妻すら酔った勢いで殺した男だ」
と、口さがない者は言うであろう。
この風評は、いったい事実なのかどうなのか。
少なくとも、東京都民の大多数が事実と信じるだけの下地は既に整っていたようである。
黒田婦人、名は
明治六年、第一子を出産している。
男児であった。
しかしそうはならなかった。夭折した。僅か二年の命であった。
――七つまでは神のうち。
と言われる通り、この時代の乳幼児死亡率の高さときたらまったく話にならないほどで、平均寿命を引き下げる巨大な要因にもなっていた。
明治八年、清は再び懐妊し、今度は女児を生み落とす。
鶴と名付けたこの赤子も、しかし翌年には兄と同様の運命を辿った。
黒田にとって家庭がなにやら面白くなく、どころか逆に息苦しいものを覚える場所になったのは、だいたいこの辺りからだという。
代わりに当時の豪傑連の常習として、紅燈緑酒のきらめきに鬱懐を散ずるようになった。
特に芝神明のとある芸者に入れ込んだらしい。たまらないのは婦人である。清隆と違い、外部に容易く逃避先を求められるような、そんな身軽さは彼女にないのだ。
ある日、ついに限度を超えた。
具体的には、明治十一年三月二十八日である。
すっかり夜も更けてから帰ってきた清隆を見て、
(どうせまた、あの女のところへ通っていたのだろう)
むらがり湧いた嫉妬の念にもはや抗う術もなく、溜め込んだ怨みを縷々と述べだす清婦人。
が、誰にとっても不幸なことに、このとき黒田は酩酊していた。
酒に酔ったときの黒田というのは、人の形をした竜巻か何かと変わらない。豪胆とか大度とか、そういった人間的美質がすべて吹き飛び、ただただ一個の衝動となる。
この場合もそうだった。にわかに逆上した清隆は、日本刀を素っ破抜くや妻の体を袈裟懸けに一閃。斬殺してしまったという。
すぐさま我に返った清隆であるが、哭こうがどうしようがもう遅い。
婦人はとっくに物体と化してしまっている。
享年23歳の若さであった。
深夜であるにも拘らず、彼の屋敷は上下が顛倒するほどの騒ぎになった。
なにしろ当時の黒田と言えば、もはやかつての了介ではない。
西郷隆盛以下高名な士を西南戦争でごっそり喪った後の、薩藩に残された代表的勢力家であり、陸軍中将兼参議開拓長官正四位勲一等の堂々たる顕官である。
白昼堂々しょっ引くには、いささか大物になり過ぎた。
やがて黒田婦人の「病死」が伝えられると、
――本当は黒田が殺ったのを、政府ぐるみで隠蔽したのだ。
との疑惑が、「団団珍聞」なる一雑誌を中心として発せられ、瞬く間に社会に横溢するの観を呈する。
これは社会諷刺にポンチ絵を使うことを思いついた日本最初のポンチ雑誌で、やがて起こる藤田組贋札事件も、同様の手法で面白おかしく報ぜられることになる。面白いだけに、人々の頭脳にもまた浸潤し易かったのだろう。明治初頭の歴史の流れは、この不平吐露機関が作り出した部分も少なくはない。
なにしろ大久保利通の斬奸状にも、この「団団珍聞」報道を真に受けた形跡がありありと見える。
…頃日世上に陳ず、黒田清隆酩酊の余り暴怒に乗じ其妻を殴殺す、
結局、黒田はその妻を殺害したのか、しなかったのか。
真相は曖昧なまま、しかし相次いで起こる他の重大事件に気を取られ、徐々に人々の記憶からその衝撃が薄らいでいった翌々年。
明治十三年十二月十二日、世間は再び、黒田清隆の名を強烈に印象することとなる。
この男は、再婚したのだ。
相手は深川木場の豪商、丸山傳右衛門の娘滝子。
年齢、実に17歳。
41歳の清隆とは、ほぼ二回り近い年の差がある。
――なんと若い娘好きの婿殿だ。
ということで、世間は目を見張らざるを得なかった。
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