明治維新は漢学を、ひいてはその背景をなす漢文明の価値そのものを叩き落とした。
地の底までといっていい。まるで瘧の落ちるが如き容易さで、日本人は「中華」の魅力に不感症になったのだ。
それを象徴する顕著な例が、漢学書籍の投げ売りである。
牧師にして文筆家、何故かよく岩野泡明と混同される、「軽井沢の聖者」こと沖野岩三郎の記述に依れば、「四書が四銭、五経が五銭、唐宗八家文が八銭、十八史略が十八銭といふやうな値のつけ方」であったらしい(昭和九年『話題手帖』100頁)。
代わりに持て囃されたのが、『西洋事情』に代表される、欧米圏の消息に触れた本だった。
興味の対象が移っただけで、人々の読書欲自体には些かの翳りも見られていない。皆、先を争い、貪るようにして読んだ。
ここに掲げる『萬国新話』も、そうしたいわゆる「流行りに乗った」書籍のうちの一冊だろう。
明治元年冬印刷、翌二年春期発行。
編者の名は柳河春三。
序文に「此書はもと社友の随筆にして。或は西洋に遊びしおり。親しく見聞せる記録を其まゝに載せ。あるひは読書の際。新奇の事に遇へは。それを抄訳せしものにて。もとより事に倫次無く。文も亦整頓せされは。人に示すへきものにあらすとて。筐底に放置せしを。同好の輩ありて。これを見んことを希ふもの少なからす」とある通り、名も知れぬ無数の蘭学者、旧幕時代の使節随行、あるいは海外留学生が日記帳や座談の端に書き散らし言いふらしたことどもの集積である。
その点に於いて福澤諭吉が一人で仕上げた『西洋事情』とは大きく趣を異にしよう。
されど平易にして通俗性に富んでおり、一読すればより激しく西洋への興味関心が掻き立てられるつくりなあたり、決して福澤のそれに劣るような代物ではない。
(Wikipediaより、柳河春三)
慶応三年というから、西暦にして1867年に相当する。
孝明天皇がにわかに崩御し、幕末の動乱も極点に達しつつあったこの年。地球のほとんど反対側のニューヨークでは、アメリカという、この文明国家の民草でさえ、かつて見たことも聞いたこともない珍奇な船が、英国サウスハンプトンの港を
一見ミサイルにも似た基底部の筒は、実はゴム製で、中は空洞。長さ二丈五尺、直径二尺五寸ばかりのそれを三本まとめて台と成し、その上に格子に組んだ材木を縄で縛りつけたというから、見ようによってはゴムボートの嚆矢という観測も可能であろう。
マストは二本、乗員は三名。積荷は水と食料の外、ランプ一つあるきりで、測量機具の影さえもなし。まことに簡素なこの船を、しかし当事者たちは「ノンパレール」――「比類なきもの」の名を以って呼び、満腔の期待を寄せていた。
さても可憐なその意気に、あるいは天も感応したか。大西洋の波濤を切ること四十三日、ノンパレール号は一人の欠員も出さぬまま、無事サウスハンプトンの港に到達。みごと本懐を遂げている。
実に航海の術に詳しく、且胆力のある者に非ざれば、為し得ざるの大業にて、之を見聞せるもの、駭かざるは無し。(中略)此挙は航海学に於て其益少からず、且右三人の勇壮なるを賛美して、英海軍局等に於て厚く之を饗応せり。
と、『萬国新話』も惜しみない喝采を送ったものだ。
この先日本が海洋国家として雄飛するには、斯くの如きフロンティアスピリットが不可欠として、その移植を図ったのだろう。
役目を終えたノンパレール号は、その後水晶宮――第一回万国博覧会会場を移設したもの――に安置され、人々の目を楽しませている。
ただ、1936年に火事があり。この美しい複合施設は跡形もなく焼けてしまった。
共に消えたか、なんとか運び出されたか、それともとっくに壊れていたか。ノンパレール号の行方は杳として知れない。
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