自分探しがしたいのならば、精神病院を見学しに行くといい――。
そう奨めたのは産業能率大学創始者、「能率の父」上野陽一その人だった。
(何を言い出すんだ、この男)
私は面食らう思いがした。至極順当な反応だろう。が、話の続きを聴くにつれ、懐疑は次第に納得へと変わっていった。
まず、上野陽一に言わせれば、
之を譬へていふと、円のやうなもので、円の中心は正態である。けれども中心は一つの点であって、位置はあるが面積のないものである。この点から外れたものは皆正態とは多かれ少なかれ違ってゐる。即ち変態である。(大正六年『変態心理』)
正常が理想上の産物でしかない以上、我々はみな異常者だ。
違いがあるとするならば、その濃度と、方向性以外にないだろう。
上下左右、円のどの領域に位置しているか。中心点からの距離は如何ほどか。あまり外周にぶっ飛び過ぎれば精神病院の御用になるし、かと言って中心点に近ければ近いほどいいのかと言うと、これも実はさにあらず。
そういう手合いは毒にも薬にもならない代わり、大した仕事をして社会に貢献することもできないというのが「能率の父」の見解だ。
結局のところ、一番世の中の役に立つのは中心と外周、その中間あたりに分布している人々である。
一体この世の中には、種々雑多な人がゐるので初めて発達して行くのである。正常な何の
(Wikipediaより、円)
なんとはなしに『天』に於ける赤木しげるの口吻を彷彿とする内容だ。かの天才も「まともな人間」の不在について、死の間際、後進に向けて一言していた。
考えてみろよ
「正しい人間」とか「正しい人生」とか… それっておかしな言葉だろ…?
ちょっと考えると 何言ってんだか分からないぞ………!
気持ち悪いじゃないか… 正しい人間……… 正しい人生なんて…!
ありはしないんだって… そんなもの元々…!
ありはしないが…
それは時代時代で必ず現れ… 俺たちを惑わす…
暗雲…!
俺たちはその幻想をどうしても振り捨てられない…!
一種の集団催眠みたいなもん………!
まやかしさ……
そんなもんに振り回されちゃいけない…!
とりあえずそれは捨てちまっていい… そんなものと勝負しなくていい…!
そんなものに合せなくていい…! つまり… そういう意味じゃ…
ダメ人間になっていい…!
人は狂的分子を包含していて構わない。否、そうであってこそ味のある人間というものだ。
ただ、自己の狂的分子がどのような色で、どれほどの密度を有しているか? これは揺るぎなく押さえておく必要がある。さもなければ最も重要な自己批判というものが出来ぬではないか。
さて、ここで漸く「精神病院」の出番である。あらゆる種類の狂人を網羅しきったこの建物を参観すれば、自分と似た傾きを持つ患者というのが必ず見つかる。「五百羅漢には一つとして同じものはないと同時に、自分に似たのが必ずゐるといふが、病院にも必ず自分に似たのがゐる筈である。それを発見し得ない奴は、よほど自惚の強いどうにもかうにもしようのないやつである」――上野陽一のこの文章は、実に味わうべき滋養分に満ちている。
我が身に於いても、実際に足を踏み入れたわけではないのだが、式場隆三郎の『妄断神経』を読んでいて、「これは」と思う症例にぶち当たった
式場の診たところによると、世の中には「便所恐怖症」という妙な脅迫観念の持ち主たちがいるらしい。
これは何も便器の形に鳥肌を立てたり、あの独特の臭気、薄暗い照明などにおそれを来すというわけでなく、むしろその逆、便所の位置を知っていなくばどんな金殿玉楼にも安んじられない精神作用を指しているのだ。
重度になると他家を訪問した際も、まず厠の位置を訊ねなければ決して着席しようとしない。その行為が相手の心理にどんな影響を及ぼすか、重々承知しながらも、どうしてもその衝動に抗い得ない。
私自身、緊張すると尿意が募る体質だから、彼らの苦しみはよくわかる。山梨への帰省のために高尾~塩尻間を結ぶ中央線に乗る時は、決まって車内トイレの付いている先頭若しくは後尾車輌に入ったものだ。
私は深く共感し、且つ改めて上野の言葉の正当性を噛み締めた。これから先も、『妄断神経』の如き書籍に出逢えたならば積極的に購入して行きたく思う。
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