日本スキーの黎明期。人々は竹のストックでバランスを取り、木製の板を履いていた。
材質としてはケヤキが主流。最も優秀なのはトネリコなれど、ケヤキに比べてだいぶ値が張り、広くは普及しなかったという。
そうした素材を、まずはノコギリで挽き切って大体の形を整えて、次いで入念に鉋がけして面をとり、適当な厚さと幅とに仕上げる。下の写真は更にのち、蒸気の作用で曲げをつくっているところ。
大正末から昭和にかけてのスキーブームの真っ只中では、これが飛ぶように売れたのだ。
老いも若きも紳士も淑女も、みな炬燵の誘惑を振り切ってまで肌刺す寒気の戸外へ飛び出し、雪の斜面を滑りまくった。
皇族とても例外ではない。
昭和三年、厳冬期の二月を敢えて選んで秩父宮雍仁親王殿下が北海道を行啓なされ、札幌鉄道局長に向かい、
「北海道は将来世界的ウインタースポーツの土地とするやうに、鉄道省等も、スイスのやうに、スポーツマンのため鉄道ホテルを建設し、内外人を北海道に集めてはどうか」
そのようなご指摘をお与えになった一件は、以前の記事で既に触れた。
が、実はこのとき、秩父宮殿下ご自身、札幌市を中心としてスキーの練習に熱中遊ばされたということは、未だ書いていないと思う。
(札幌近郊のスキーヤー)
練習を通して札幌の地によほどの愛着を抱きなされた秩父宮は、このあたりにどこか適当な場所を見繕っての
道庁以下、関係者一同、この仰せに喜悦した。札幌こそが日本スキーの中心たること、これで最早疑いがない。それだけの宣伝効果はあると見込んだ。
「冬の北海道は全く人間の住むところでないものゝ如く思はれてゐた内地人に非常な刺戟を与へ、また北海道における冬の味はひを十分宣伝されたことである」
という道庁役員の言葉の中に、その消息が窺える。
遅滞なくすべてが駆動して、同年十二月十日、札幌の南、標高910m、万計沼のほとりに於いてヒュッテはめでたく竣工をみた。
翌年一月、今度は高松宮宜仁親王殿下が北海道を訪問なされ、出来たてほやほやのこの山小屋に休まれている。
「空沼小屋」の名を受けたのは、まさにこの時のことだった。
昭和五年以降は広く一般にも開放されて、令和三年現在にまで続いている。
(空沼小屋、昭和五年撮影)
それにしてもスキーという、このスポーツのいったい何が、日本の大衆の心を得たのか。
流行の淵源を探らんとする試みは、方々に於いて展開された。わけても傑作と呼ぶに足るのは、石川欣一のそれだろう。
そう、ジラフをキリンと名付けた男、石川千代松が長男たる彼である。
以下、彼の随筆『ひとむかし』から当該部分を抜粋すると、
諸君は子供が遊んでゐるのを見たことがあるだらう。子供は、やっとのことで歩ける時分から、何か棒切れを持ちたがり、振り廻したがる。これは別に他人に危害を加へやうとか、犬を追ひ払はうとか、そんな意志があってやるのではない。何となく持ちたいから持つのだ。つまり本能で、人間は何かしら長いものを持ちたい本能を持ってゐるのだ。(中略)大人だってその本能においては子供と大して違ってはゐまい。しょっちゅう箸とか、ペンとか、簿記棒とか、ステッキとか、小さな棒ばかり持たされてゐるんだから、たまには本能的に、自分の身体よりも長い棒を持って見たくなる。
さればとてスマートな青年紳士、あるひはシックな令嬢が、銀座通りを物干し竿を振り廻して歩けますかってんだ。歩くのは平気だが先づ狂人あつかひされる。そこでスキーが登場する。七尺は充分あり、而もこいつは相当重くて
正直なるほどと頷かされた。
(北海道の山岳スキー)
幼少期にはチラシなり新聞紙なりを細長く丸めてチャンバラ遊びに精を出し、長じてもなお模造刀に魅せられて、買って飾ってときどき抜いては悦に入ってる私としては、ちょっと抗弁の余地がない。
案外こんな揶揄いまじりの言にこそ、筆者当人さえ意図しないまま、真理は宿るのではないか。
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