四国は高知県内の良心市の習俗は、昭和どころか大正中期の段階で、既に評判になっている。
左様、良心市。
無人販売所と言い換えてもよい。
(Wikipediaより、良心市)
掘っ立て小屋の屋根の下、籠なり笊なり何なりに野菜や果実を盛り上げて、手書きの値札と料金箱とを設置したきり、別に見張りも立てもせず、客の正直に支払いの一切を依頼する、そういう形式の店舗のことだ。
田舎の路傍でよく目に入る景色であろう。
加藤咄堂の大著たる、
「高知県に入れば、道路に蓆を布きて菓物類を並べたゞ代価を附したるのみて一の番人なく得んと欲するものは相当の代価を置きて持ち去り、店頭に代価を付して草鞋を吊し、傍くに竹筒を置けば、代価を竹筒に入れて其の草鞋を持て行き、未だ曾て代価を置かずして持去り又は不足して行くものもないといふ」
『日本風俗志』に収録された上の記述は、まさにそうした良心市の典型だ。
支払いを誤魔化す者がないのは南海土佐の麗しき人情といってよく、咄堂はまた、斯くの如き美風のよってきたる根本として、弘法大師の大威徳を挙げている。
(Wikipediaより、加藤咄堂)
四国八十八箇所めぐり、お遍路さんの行き交うところ、彼の地の霊的充実は、誰にも疑う余地がない。
そういう霊地で不善を為せば、「大師の冥罰忽ち至ると信ぜられて居」ればこそ、こんな無防備、特殊商法も罷り通る、と。
「自己の使命なるものに明確な信念を持ち、自分は神の計画の一部であると信ずる人と、かかる信念を有さない人との間には、奮い起こせる力に於いて天地ほどの差異がある」と喝破したのは、確かオリソン・マーデンだったか。
前者は勝利し、後者は落伍するのだと、そういう意味の文脈にたぶん繋がっていた筈だ。
なるほど確かに宗教の感作は馬鹿にならない。
「政府の人を治るは法を以てす。而して世の中に現れたる者を制す。故に心中に盗を為さんと思ふとも、手を出さぬ間は政府も之を責むるの権なし。然れば心を治るは何人の任かと云へば、宗教に外ならざるべし。されば政府は身体を支配し宗教は心を支配すと云ふべし」――福澤諭吉の言ったが如く、上手く使えば人間社会をより好ましき方角へ、効率的に向かわせることが出来るであろう。
まあ、大概の連中は「上手く使う」のに失敗し、迷信を真理と、ペテン師を
それもまた人の世の常態だろう。
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