【▼▼前回の神戸挙一伝▼▼】
栄八の息子――すなわち挙一の実の父親――は一郎という、何の変哲もない名の持ち主で、才覚の方も名前と同じく、至って凡庸な人だったろう。
が、気質と才覚とはどうやら別物であるらしい。彼は極めてオクタン価の高い血を、その皮膚の下に通わせていた。
折しも幕末、維新回天の
当節流行りの憂世慨国、謂うところの「攘夷論」を聞くに及ぶや、この甲州男の血液は一滴余さず大炎上し、神経は白熱してかがやいた。
身は山奥の田舎に在れど、想いは遥か天涯へ。一郎は日本国の行く末を本気で案ずるようになり、このままでは夷狄に神州が穢されると日夜を選ばず慷慨し、諸列強が攻め寄せて来てこの国を分け取りにする日も遠からじ、いやもしかすると明日にもと大真面目に危惧しては、自分で作り上げたその地獄絵図に自分で戦慄しているという寸法で、早い話が尋常の精神状態ではなくなった。
既に時代そのものが鳴動している。
その地響きが、こんな日本国の片隅にまで到達していた事実には驚嘆する以外ない。
物に感じやすく、しかも一旦感じ入ってしまったならば身も世もなくなり、まなじりを吊り上げ鬼相を呈さずにはいられない――一郎のようなタイプの者も、また日本人の一典型ではあるのだろう。
だからそう、おそらく彼がもっと後、たとえば大正年間にでも壮年期をむかえておれば「閥族打破・憲政擁護」の旗の下、普選実現の闘士となって官憲と取っ組み合ったに違いないし、将又戦後まもなくであったなら、今度はゲバ棒担いでマスクとヘルメットで顔を隠して、火炎瓶の投擲に勤しんでいたに相違あるまい。
が、幸か不幸か、一郎は幕末の人だった。
ゆえに、力と熱を散らす手段もそれに適わせたものとなる。
あろうことかこの男は、先代当主栄八が生涯を賭して積み上げ遺した金銀の山を、まるでちぎり捨てでもするかのように、気前よく自称「勤王の志士」どもに分け与えてやりだしたのだ。
端的に言えば、彼らのためのパトロンになった。
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