大正の御代も終盤にさしかかったある日のことだ。東京都、交詢社の食堂で、二人の男が顔を合わせた。
いや、互いに予期した接触ではなく、あくまで「偶然の出会い」に過ぎなかったわけであるから、「鉢合わせした」と書いた方が相応しかろうか。
男たちの名は、波多野承五郎と鳩山一郎。
ともに議会で国民の意思を代弁する「代議士」という立場である。
(Wikipediaより、波多野承五郎)
そも交詢社とは、福沢諭吉の肝煎りで明治初期に発足した日本最初の実業家社交クラブに他ならず、しぜん彼らのような立場の者も出入りすることが多かった。
とまれ、出会った以上は無視するわけにもいかぬであろう。特に波多野承五郎には、鳩山に対して是非とも確かめてみたい一事があった。
それは、当節記者の間で通用していた鳩山一郎の渾名について。
彼はこのころ、もっぱら「
君は新聞紙上で「鳩一」と言はれるが、あれを見て好い心持がするか、悪い心持がするかと言って訊いた。鳩山君は余り好い心持はしないと言った。併し政治家である以上は、鳩一でも鳩二でも世間が問題にして呉れるのは偉いのだ、鳩山一郎君と云って敬遠された挙句に全然紙上から放逐されては困るではないか、故に「鳩一」と呼ばれるのは政治家の名誉でなかろうかと言ったら、全く書かれなくては困るが、「鳩一」には感服せぬと言って居った。(大正十五年刊行、波多野承五郎著『古渓随筆』194頁)
両者の抱く政治意識、その懸隔の具合までもがありありと反映されたやり取りだろう。
鳩山一郎は1959年に、76歳で永眠する。
その「鳩一」の死からちょうど半世紀を経た2009年。彼の孫たる鳩山由紀夫が第93代総理大臣という地位に就き、そして、わざとやっているのかと叫びたくなるほどの勢いで失政ばかりを繰り返し、この国を奈落の底へと導いた。
俗に「悪夢の民主党政権」として知られる暗黒の日々の始まりである。
破綻寸前まで掻きまわされた日米関係。
中国を果てしなく増長させた外交態度。
立件されただけで三億五千万円にも上る「故人・借名献金」問題。
実母から支給される毎月千五百万円の「こども手当て」。
「マニフェスト」という言葉の重みを一円玉以下に暴落させたこととて見逃せない。
小沢一郎による天皇陛下の政治利用も、思えばこの男の政権下で起きた出来事だった。
いちいち具体例を挙げてゆけばキリのない、目も眩むようなこれら「実績」の積み重ねにより、鳩山由紀夫は実に多くの渾名を頂戴する運びとなった。
「ポッポ」「ルーピー」「日本のノムヒョン」「宇宙人」――「鳩一」と呼ばれることにすら苦々しさを隠せなかった、彼の祖父がこの有様を知ったなら、いったいどんな顔をするであろうか。
衝撃のあまり血圧が破局的に急上昇し、脳の血管をぶっちぎって憤死してもおかしくはない。
まったく彼は、あのルーピーは、国民はおろか先祖に対しても顔向け出来ないことをした、不義・不孝の徒輩である。
「兄は簡単に言えば、表に出来ない裏献金ばかりいっぱい受けている。それでは恥ずかしいから、勝手に名前を借りた。だから、死んだ人の名前も借りた。
兄弟だから、私の友人たちがいっぱい入っている。私の友人で兄に紹介した人たちは、勝手に名前を使われて私のところに怒って電話をかけてくる。
しかも、あっという間にもみ消し工作をやった。(中略)私はわずかに残っている兄弟愛があるので、これ以上言わない」
とは、実弟・鳩山邦夫の言葉だが、国益の為にその「愛」とやら、是非とも切り捨てて欲しかった。
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