穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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神戸挙一伝 ―祖父栄八―


 山梨県南都留郡みなみつるぐん東桂ひがしかつらむら という行政区分は既にない。1954年、町村合併により都留市が発足したとき廃止となった。


 都留市の航空写真を大観するに、ざっと4分の3は山ではないか。
 御坂山地と丹沢山地に挟まれた甲斐の国でも有数の僻地、谷深く陽薄い隠れ里――と言ってしまえれば如何にも神秘的な印象を醸し出せて結構なのだが、そうもいかぬ。山と山とが裾を接する僅かな隙間に人々が寄り集まって棲息している光景は、山梨ではごく一般的なものであり、別段都留だけの特色ではないからだ。


 むしろ都留市都留文科大学というわかりやすい目玉を持っていて、人の流入がある程度担保されているぶん、他の郡内地方より恵まれているのではなかろうか?


 桂川の清流が通っているのも大きい。水量が豊かということは、稲作が営めるということだ。山梨の稲作は風土病対策のために絶滅したかと思われがちではあるけれど、どっこい中々しぶといもので、未だに命脈を保ち続ける田んぼは意外と多い。

 

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 特に都留には、創業一世紀を経た米屋が未だ営業していたりする。


 こうして考えると、やはり都留市は存外特色の多い地だ。

 


 ――その、現都留市・旧東桂村に。

 


 神戸挙一が呱々の声をあげたのは、文久二年二月二十一日のことだった。
 筋目はいい。
 彼が生を享けた神戸家というのは、武田信玄にかつて仕えた甲州武士の末裔なりと代々称する家だったのだ。


 もっとも何処の田舎へ行ったとしても、一定以上の身代の家にはこういう「お家伝説」が必ずある。
 ただ、神戸家の者は過去の栄華を吹聴して虚喝と自己慰安に浸るだけが能な、そんな羊頭狗肉のメッキ揃いでは決してなかった。


 特に挙一の祖父にあたる栄八という男は出来物で、武門のすえとは思えないほど商才があり、あるとき思い立って甲斐絹の行商に手をつけたところ、これが面白いほど図に当たり、みるみるうちに巨万の富を築き上げた傑物として名が高い。

 挙一の商才は、ひょっとするとこの祖父からの隔世遺伝ではなかろうか。


 ところがこの俊傑・神戸栄八翁にも、ひとつだけ手落ちとなった分野があった。
 後継者――息子の教育がそれである。

 

 

 

 

 


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