「第三共和国政治は即ちうそつき政治。剣を抜き放ったのは殆ど戦備のないフランスであった。新国家が遺産相続した防空壕はペンペン草の生えるに任せ、一対十か、一対二十か、あまりにかけはなれた仏独空軍の比率を語り顔である」
死者に鞭打つ発言だった。
上の文章が物されたとき、フランス第三共和政は既に地上に存在しない。ナチス・ドイツの軍靴によって、朽木よろしく蹴倒され、蹂躙された後である。
いっそのことフランスを「第二の故郷」と呼べるほど久しく彼の地に棲息し、
フランスの飯を喰い、
フランスの水に慣れ、
フランスの風を浴び、
フランスで子を育て、
フランスで仕事をし、
『フランス通信』などという名随筆をも認めて、
文芸史上に今なおその名を留め置く、
瀧澤敬一の如き者をしてさえも、こんな露骨な悪態を思わず吐かずにいられないほど、1940年の敗北ぶりは物凄かったようだった。
瀧澤敬一『第三・第四フランス通信』。
視点は違えど時節は同じ、共に第三共和政末期の姿を赤裸々に描いたモノである。
著者の筆力も極めて高い。
あの辺りの解像度を高めるにつき、役に立つこと無上であった。
仏独間の航空戦力、みじめなまでの懸隔性に関しては、モーロワの方も繰り返し自著の中にて説きまくっていたことだ。
「若しも開戦となれば」とリヨンの爆撃隊司令官は私に語った。「われわれは勇敢に死ぬのみだ。これだけがわれわれの為し得ることだ」
「何故です?」と私が訊ねると、
「わがフランス空軍は、第一に兵員が極めて少い。機体に至ってはお話にならぬほど旧式だから──」
上はことさら印象深い一幕である。
(Wikipediaより、リヨン)
こうして史書を突き合わせ、内容を補完し合うのは、やはりなかなか、何とも言えず面白い。乙なもんでござんすなあ、いい趣味を涵養したものよ、と、つい自画自賛に走るのだ。
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