まだ日露戦争が起こる前、すなわち明治の中葉期。東京の名所・旧跡は、多く富者の私有であった。
御殿山の桜林は山尾子爵の、
品川海晏寺は岩倉家の、
関口芭蕉庵は田中子爵の、
まだまだ他にも、向島小松島遊園なぞも――とかくそれぞれ有力者らの掌中に帰した状態だった。
(芝公園の梅)
既に私有地である以上、一般人の立ち入りを禁止するのは勿論である。
『報知新聞』はその状況を憂いている。憂いて、人心の統御上、経世上よろしからぬと切言し、行政の出動を請うている。東京市の財と力で、よろしくこれら私有地を買い上げ、大衆向けに広く公開すべきである、と。
「東京市たるものもし名所旧跡に志あらば、よろしく此等の土地を購ひて公共の遊園地となすべく、又たその所有者にして志あらんには、或る時期を限りて諸人の縦覧を許すべし、…(中略)…豪商、大官の別荘、名園の如きは、斯る制規を設けて成るべく諸人に縦覧せしむること、四民苦楽の趣意にも叶ひ、貧富互に敵するの弊を除くを得ん」
明治三十一年四月一日の記事だった。
(Wikipediaより、報知新聞、ホーロー看板)
蓋しもっともな意見だが、言われる側――富豪・華族の諸君にも、一定の「言い分」はあったろう。
人間社会は玉石混淆、君子
福澤先生の回顧にもある。開国当時、異人どもが
――道といえば、やはりこのとし。三十一年九月に於いて、東海道を自転車で、神戸から東京に至るまで、踏破して来た一団がいた。
(Wikipediaより、明治期、自転車通学する女学生)
二日の午前六時にスタート、六日の午後三時にゴール。ざっと四日と九時間程度、かなり早いペースであろう。
おまけに舗装工事など無きに等しい砂利道上等・馬糞転がる明治にて。一種偉業を成し遂げたのは、「双輪會」なる団体所属の五人組。
いま試みに名と年齢を並べておくと、
○中井村常太郎 三十三歳
○入江孝三郎 三十一歳
○加納芳三郎 三十一歳
○中尾弥太郎 三十一歳
○小川長三郎 二十四歳
〆て五名の漢たち。気合の入った、まさに日本男児であった。
かと思いきや同じ車輪の操者でも、
「…一昨日午後三時過ぎ兵庫県選出代議士植木政一氏の抱車夫森田忠次(27)は芝区西ノ久保八幡町二十九番地先の往来にて、向ふより巡査の来るを見掛けながら五十銭遣るぞ遣るぞと叫び、傍若無人に放尿したる廉により忽ち引致となりて、所望の如く五十銭の科料に処せられる」
どうしようもない、こんな馬鹿が居たりする。(『時事新報』明治三十二年三月二十五日)
(表参道、昭和初期)
以上は、余談。
とまれかくまれ解放された公園に押し寄せるのが上品な連中のみなどと、絶対的に有り得ない。管理の手間は必ず増える。
雑踏によりせっかくの興趣が殺がれる程度ならまだしもマシな方であり、桜の枝をへし折って土産に持って帰るだの、ゴミをそこらに放置するだの、盗難・汚損・問題百出、名状し難い馬鹿な騒ぎの発生が、あまりに自明ではないか。
そういう民度の低い連中から、大事な文化財を守っている、責任もって保護しているのだ俺たちは――という弁も、苦しいながら成り立たないこともない。
公開して欲しいなら、今すぐ愚民どもすべてに叡智を授けてみせやがれ、と。
(フリーゲーム『××』より)
令和の現代社会に於いて、礼儀知らずの外国人観光客に荒された地域を一瞥すると、名所旧跡を世間に曝したがらなかった古人の心境に関しても、なんとなく察しがつくものだ。
ここまでお読みいただき、誠にありがとうございます。
この記事がお気に召しましたなら、どうか応援クリックを。
↓ ↓ ↓