日露戦争期間中、旅順閉塞の試みは三度にわたって展開された。
明治三十七年二月十八日が第一回目の決行日。民間より、都合五隻の老朽船を買い上げて、指定座標でこれを沈没、その残骸で旅順港を通行不能に――物理的に封鎖してしまう算段である。
その日に先立ち、海軍に珍客が訪れた。
閉塞船の、もともとの乗組員である。
「天津丸」「報国丸」「仁川丸」「武揚丸」「武州丸」――この五隻を、幾久しく動かし続けた男たち。彼らはむろん、軍人ではない。
一室を与え、用向きを問う。代表者が口を開いた。
「船にはそれぞれ、個性とでも申しましょうか、永く乗った者でなければわからない、動かしきれない部分があります」
当たり前のことである。
「ですので、運用に万全を期すために。五隻の船それぞれに、せめて一人や二人なりとも、我ら
にわかに常軌を逸しはじめた。
「待て」
「一同、危険は覚悟の上でございます」
誠意を顔面にみなぎらせる代表を、
「とにかく、待て。即答はできん。検討が要る」
応接役は、そのような言葉で押しとどめ、なんとかいったん引き下がらせた。
「検討」の結果、この提案はあえなくも退けられることとなる。
が、翻っていうならば、真面目に「検討」する価値を当時の海軍軍人が認めたということである。
フネには確かに個性というものがあり、自在に進退させるにはそのあたりをよく踏まえ、深く、深く、彼女と気息を一致させねばならないと。
やがて閉塞作戦失敗の報が伝わると、乗組員らは臍を噛んで悔やんだという。
「おれたちが同乗していれば」
石に齧りついてでも決死隊に混ざりたかった、混ざらなければならなんだ――そういう趣旨の口惜しさだった。
(二十八糎榴弾砲)
これまで幾度も触れたことだが、性懲りもなくまた言おう。明治三十七、八年の日本人の戦意は異常だ。ひとり軍人のみならず、民間人の心まであまりに滾り過ぎている。
狂奔というべきか。終局の勝利を結ぶべく、誰も彼もが血眼と化し挺身する灼熱の秋。修羅の形相、ひとつひとつを眺めるに、うってつけのモノがある。
すなわち当時の新聞雑誌。今回ここでは『国民新聞』を透して視たい。
明治三十七年四月二十日の紙面に曰く、
開戦以来軍夫若しくは兵卒として従軍を願ひ出づるもの夥しき数に上る。出願者の詳細は千差万別にして第二補充兵たるものを第一補充兵として速に召集せられたしと願ふ者、予備後備に在るがため召集に遅れて此千載一遇の好機を逸せんかとあせる者、既に国民軍に編入せられたる下士卒にして此際是非軍人として出征したしと申出づる者、十八九歳の少年にして速に現役兵に採用を願ふ者、六十有余の老人にして抜刀隊を組織せんとする者、陸軍大臣と同郷の好を以て従軍を請ふ者等指を屈するに遑あらず。
血書の類も盛んに送付されてきた。
うち一枚を抜き取るに、
従軍志願書 私儀
明治三十三年陸軍第一補充兵に編入致され候然るに未だ召集の命に接せず此機に際し座視傍観するに忍びず候間何卒従軍御許可相成度此段血書奉願上候也
意図は明晰、余計な装飾をなるたけ省いた直截な文。
骨の硬さを窺わせるが、更にその上、生血を絞って綴られたのを勘案すると、もはや狂気の相すら帯びる。
そういう民間からの上昇気流を、政府はどう取り捌いたか。
再び『国民新聞』を参照すると、
何れも其の志に於ては壮烈嘉すべしと雖も軍制整備の今日に於ては義勇団等の必要もなく、又徴兵令の規定現存することなれば気の毒ながら是れ等の出願は全く無益にして其効なきのみならず、軍国多事の際徒に当局者の手数を煩すに過ぎざれば国民は精鋭なる軍隊に信頼して各其業に勉励すること至当なれと其の筋の人は語る。
――ざっとこんな塩梅で。
暴れ馬を駕御するような注意の程を、随分とまた困難な立場を強いられたらしい。
猛獣性を完全に殺いでしまっては、戦の役に立たせられない。
さりとて年中猛っていては、管理が面倒で仕方ない。
博労の腕の見せ所というわけだ。彼らは概ねうまくやり、そして時たましくじった。日比谷焼討事件あたりが、失敗例にまず適当か。
きっと二度とないだろう。
ここまで掲げた幾多の情景。
大日本帝国ならざる日本国で、斯くの如きが焼き直される瞬間は、だ。一度文明がリセットでもされない限り不可能である。断言して構うまい。一切は追憶の涯てに去り、戻ることはないのだと。
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