藤山雷太がもしも今に在ったなら、その名に負けない、さだめし
彼はかつて言っていた、
「我が国の現在は真に内憂外患交々至ると云ふ悲しむべき状態で国民は此際非常なる覚悟と決心を以って国家の前途に善処せねばならぬ、而して此国民の生活基礎は素より政治にあるが故、政治の良否は国民生活の安否を決する鍵である、…(中略)…金解禁でも物価問題でも又貿易振興策は自由保護何れの政策を採るにしても、国民の生活に触れたものでなければならぬ」
と。
(Wikipediaより、藤山雷太)
然るにだ。これを踏まえて見た場合、先日の農水大臣の、あのアピールはどうだろう。いったい何を思ってか、数種類の備蓄米を食べ比べ、「どれもうまい」だの「差がないことを知ってほしい」だの、国民めがけて下手糞な食レポまがいをほざきやがった。
問題はそこじゃねえんだよ。
誰が味の詮索なんぞしていると、百人が百人、口を揃えて言ったろう。
少なくとも
「国民の生活に触れる」どころの騒ぎではない、仮にも国務大臣が、あれ程までに我々庶民の生活から縁遠い感覚世界に生きているとは、勢い絶望したくなる。

(大正の米騒動)
およそ政治家の任につき、三土忠造はいみじくも説いていたものだ、
「政党政治家の強みとする所は、複雑なる社会を理解して、世態人情に通ずるにある。故に政党出身の大臣たる者は、能く民意を斟酌して、官僚の弊風を防止するに、深甚の注意を払ふを要する」
と。
その政治家まで国民生活の実感と乖離してしまったならば、もはや救いようがないではないか。
末世も極まれりであった。
「豊葦原瑞穂国に生を享けておきながら、米が高くて喰えないなどと、そんな馬鹿な話があるか」。──
大正七年、日本列島津々浦々に響き渡った叫喚を、よもや再び聞く日が来るとは。自分の喉からひしりあげる日が、冗談ではなく来ようとは。
ほんに歴史は皮肉を仕組むがお好みだ。
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