入浴ばかりが温泉の利用法でない。
鹿児島県の指宿温泉あたりでは、大正時代の後半ごろから昭和中期に至るまで、これを製塩に活用していた。
四角ばった呼び方をすれば泉熱利用製塩法。
発案者は黒川英二工学士。
80℃を超す高熱の湯を鉄管に引き、その鉄管を海水槽の中に巡らし、漸次あたため、蒸発させて塩を製する。言葉にすれば単純な仕組み。指宿温泉の特徴――豊富な湯量と場所によっては100℃に届く湧出温度はこの仕組みの実現に十分な条件を整えていた。
幸運にも、草創期の写真が残されている。
昭和四年、未だ同業者のない時代。もっともらしい科学知識をタテマエにした詐欺事件はこのころ既にありふれている。これはいったいどちらであるか、本当に採算が合うのか否か、期待と疑念を綯い交ぜにして世間が見詰めた、黒川英二の塩田の景――。
一見して、すぐさま草津温泉の「湯畑」を
しかしここに満ちているのは湯ではない。
海水だ。
湯は鉄管の中を走って人目に触れぬ。勘違いするなと、私は私を誡めた。
場所を移して、おつぎは本州ど真ん中、飛騨高山の奥深く。
上高地にもほど近い平湯温泉一帯ではその昔、温泉水の農業利用が行われていたと聞く。
当地の標高は実に1200m以上、山深さとも相俟って、夏であろうと涼風の吹く過ごしやすい場所である。
避暑地とするには最適だろうが、およそ農事を営む場合、この涼しさが曲者だった。
水温が稲の生育にどれほど強く影響するかは、本職の農家ならずとも、『天稲のサクナヒメ』に触れた方ならたちまち了解されるであろう。
更なる裏付けを望むなら、あるいはこんな報告もある。
山葵田は、その水が低温で、しかも冬夏の温度の差の少ない、極めて清澄なのを必要とする。清澄なことは米田に適するけれども、温度においては寧ろ米作には障碍となるので、山葵田から流れ落ちる水は直ぐに米田には使われない、若しこの水を使用する場合は、一度貯水池で水温を高めるのが普通であるから、山葵田で直ちに米作は出来ず、又米田で直ちに山葵は出来ない。(昭和九年発行、内田寛一著『経済地域に関する諸問題の研究』20頁)
月山などではまさにこの――貯水池により水温を高める方法で、いっとき山頂近くに於いてすら水稲耕作を営んだという。
流石米の庄内平野、稲作にかける執念は並々ならぬものがある。
が、奥飛騨平湯の住民は、あらゆる意味でそうでない。
彼らはまず早々に、この環境での米作りを諦めた。
諦めて、もっと寒冷に耐性のある穀物を育てることにした。
稗を常食に充てたのである。
ところが平湯の谷川ときたら、想像を超えて低温だった。
そのまま田に流そうものなら、なんと稗でさえ不作を来す。温度調節は必須であった。
この命題に、人々は至って直接的な解を見出す。そう、冷た過ぎるなら温かいのと混ぜればよろしい。ちょうど近所に適当なのが、尽きることなく湧き出し続けているではないか――。
(平湯峠の開墾地)
どのようにして湯を引いたのか、具体的な設備についてはわからない。
『経済地域に関する諸問題の研究』も、「平湯では、温泉の湯を稗田に灌いで、低い気温を補ってゐる」と短く触れるのみである。「何故そうしたか」は明瞭なれど、「どうやってやったか」が不鮮明。この点、ひどくもどかしい。
ただ、このようにして栽培された稗たるや、さだめし滋味に富んだろうと思うのだ。
私は山梨に生まれた。
有名無名とりまぜて、温泉の多い地域の中に実家はあって。地元民の有利を活かし、存分に浸かったものである。
浸かるのみならず、平生これを飲みもした。
ポリタンク持参で温泉スタンドに赴いて――この施設の説明をしようと思ったが、やめた。あんまりにも名前そのままであるからだ――、たっぷり湯を汲み、帰ってからペットボトルに移し替え、冷蔵庫にぶち込んで、よく冷やしてから
クセは強いが、一度慣れると病みつきになる。
(『Ghost of Tsushima』より)
そんじょそこらのミネラルウォーターなど
同じ効果が、稗にも齎されはしないだろうか?
湯に育まれた身としては、どうしても温泉水の神秘的な効果とやらを信じたくなる。所詮私も、迷信から脱しきれない俗人だ。
ここまでお読みいただき、誠にありがとうございます。
この記事がお気に召しましたなら、どうか応援クリックを。
↓ ↓ ↓