「痛え、医者を呼んでくれ」
岐阜で兇漢に刺された際、板垣退助が本当にあげた叫びとは、こんな内容だったとか。
まあ無理からぬことである。
死の恐怖を、それもだしぬけに突き付けられて、泰然自若とふるまえなどとそれこそ無理な注文だ。
大正十二年九月一日、溜まりに溜まった地殻変動エネルギーがついに臨界点を超え、関東地方一帯を、時化の海もかくやとばかりに激しく揺らしたあの瞬間。
横浜に不幸な父子があった。
父は書斎でくつろいで、
息子は庭で土いじり、
その格好で大震災を迎えたことが、彼らの運命、生と死を、どうしようもなく分かってしまった。
震度七の衝撃に、住宅はむろんひとたまりもなく、象に踏まれたマッチ箱みたくぺしゃんこになり。
脱出が遅れた父の身体は、梁やら屋根やら柱やら、無数の残骸の巻き添えになり、挟み込まれてにっちもさっちもいかなくなってしまったのである。
(Wikipediaより、震災後の神奈川県庁)
動転のあまり、息子の魂は消し飛びかけた。
下敷きの状態でも父の意識は明瞭で、苦悶の声をひっきりなしに漏らすのも、彼の青い精神をいよいよ千々に乱しただろう。
救出のため、あの手この手を講ずるが、どれも一向に捗々しくない。
そうこうする間に煙がたちこめ、次いで火の粉が舞いだした。
関東大震災の発生時刻は午前十一時五十八分三十二秒。昼飯時といってよく、調理用に熾された火が意図を外れて広がって、結果街を焼き尽くす焦熱地獄に繋がったのは蓋し有名な話であろう。
この現象はなにも東京のみならず、横浜に於いても発生したと、つまりはそういうことなのだ。
(震災直後の東京)
息子は、絶望した。
父も状況を察したらしい。で、唇をふるわせ、発した言葉が、
「何故早く救け出さぬ? 早く早く……親不孝者!」
だったということである。
「このままではお前も危険だ。俺のことはいい、もう構わないから、さっさと逃げろ」――そんなセリフ、気遣いは、一言半句もこぼれなかった。
「板垣死すとも自由は死せず」と同様に。急場に臨んで感動的な名台詞を口にするのは、実に、実に難しい。
(Wikipediaより、岐阜事件)
「今でもあの末期の声が、親不孝者と怒鳴られたのが、耳の奥にしみついたまま離れないんです」
息子は後に、そんな風に語ったという。聞き役は、朝日新聞の記者だった。震災から既に
発行部数を絶対正義と信奉する朝日新聞の記者といえども、この父子を報道するにあたっては流石に実名を出してはいない。
ここまでお読みいただき、誠にありがとうございます。
この記事がお気に召しましたなら、どうか応援クリックを。
↓ ↓ ↓