慶応三年夏の夜、江戸の街に辻斬りが出た。
薬研堀の一角で、縁日帰りの親子連れを斬ろうとしたものである。
すれ違いざま刀の柄に手をかけて、胴を払おうとしたらしい。鞘走る音を、子供の耳は確かに聴いた。
ここで
竹とはいえ、中に鉄の芯を入れ、強度を増した代物だ。
木刀程度の攻撃力はもっている。
「ぎゃっ」
という悲鳴こそ上げないものの、辻斬りの姿勢は大きく崩れ、そのまま彼方に逃げ去った。
もしもこの時、父の反射が一秒でも遅れていれば、きっといまごろ「キリン」は「キリン」でなかっただろう。
なんとなればこの少年こそ、やがて「ジラフ」の和名を「キリン」と定める動物学者、石川千代松その人ゆえに。
父の名前は石川潮叟。勘定奉行、外国奉行支配組頭等を務めた堂々たる幕臣である。
(Wikipediaより、石川千代松)
勝海舟とは互いに「竹馬の友」と相許し合う関係で、そのつながりから維新回天の変革期には色々と頼まれ仕事を請け負った。
だからもしかするとこの辻斬りも実は単なる辻斬りでなく、明確に潮叟ひとりに狙いを絞った暗殺者だったやもしれず、そうなるといよいよ彼の所業が神技の域にさしかかる。
後年、明治も十余年を過ぎてから。石川千代松は勝海舟と加納治五郎の道場にて対面し、「お前の親父は文武の芸では何れも自分より一段上だった」と聞かされたそうだが、納得以外になかっただろう。居合の「出」を、しかも杖で潰すなど、どう考えても尋常一様の沙汰でない。まず間違いなく、先々の先をとっていた。
敵対者の脳波というか、気の起こりを見越して動く、ほとんど予知能力めいた武術の深奥。むろん幼い千代松に、そこまでこみいった知識はない。ないが、しかし彼も雄である。
(凄え。……)
男の本能としかいいようのない領域で、その途轍もなさを実感していた。
父への尊敬、己が血統を誇る心が明確に形となったのは、おそらくこの夜からだろう。
千代松の息子――これは欣一と名付けられ、成長するに従ってめざましい文才を発揮して、優れた随筆を多々残したが、その中にこんな一節がある。
一体僕のおやぢといふのは、動物学者で、英独仏の三ヶ国語がよく分り、そして世界知識に通じてゐたいい人間だったが――(親馬鹿といふ言葉はあるけど、子馬鹿といふ言葉はない。僕は子馬鹿か知ら。さうかもしれないが、鮎を調べたいばかりに台湾まで行き、肺炎になり、死ぬ直前の譫言にまで鮎のことをいってゐたおやぢのことを考へると、世の中には、何と僕をはじめ、あるひは僕を最後とする、コクツブシが沢山いることよ! と嘆かざるを得ない)――要するに、こんな人間でありながら、ある時、僕に関してある事が起った時、憤然として「薩長の野郎どもが何だ!」とどなったことがある。(昭和十一年発行『随筆 ひとむかし』6頁)
また別の機会に於いて千代松は、この倅から「うちの先祖は御家人ですか」と訊ねられるや、みるみる顔を充血させて、
「馬鹿なことを言うな、うちの先祖は旗本で、布衣以上というんだ」
大喝一声、雷を落としてのけている。
時代錯誤と謗られかねない、そんな挙動の数々を、息子はしかし、「これは我々にとっては甚だ滑稽な言葉だが、九つの時に御維新が起り、巣鴨大根畑の家の畳をあげて山の形におき、その中にすくんで
(明治三十年前後の墨堤)
三代続けて傑物を生んだ血筋というのは、ちょっと珍しくはなかろうか。
そんな思考が、ふと湧いた。
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