関東大震災は実に多くの物を奪っていった。
大正十二年九月一日を境とし、帝都の情景は文字通り一変したのである。火災旋風を形容するに当事者たちは「呪いの火雲」と呼んだりしたが、これはまったく実感に即した表現だろう。濛々とたちこめる黒煙の下、熱と叫喚に追いまくられる心境は、想像するに余りある。
やがて被害の全貌が、徐々に明らかになるにつれ。
一部奇矯な好事家たちは顔を覆って、盛大に嘆かざるを得なかった。――まさか日比谷の警視庁まで、全焼の憂き目に遭っていたとは。
(「大正大震災大火災」より、炎上する警視庁)
彼らに涙をしぼらせたのは、この赤レンガ造りの建物の隅にうずくまるようにして存在していた、刑事参考館の焼失である。
犯罪にまつわる様々な物品が蒐集された、当時に於いて日本唯一の刑事博物館。そこには大久保利通を切り裂いた島田一郎の日本刀をはじめとし、「稲妻強盗」坂本慶次郎愛用の凶器等々、実際の犯行に使われた幾百振りの大小刀剣が保存され、およそ他に類のない異様な雰囲気を醸し出していたという。
撮影技術の進歩に伴い、明治の中ごろあたりからは写真も増えた。
逮捕された兇賊のふてぶてしい面構え、気の弱い者なら一瞥しただけで失神しそうな、凄惨極まりない現場写真――。
そんな物品がさも無造作に、うず高く積まれていたわけだ。
左様、無造作に積まれていた。
実は当時の警視庁には刑事参考館をまともに運営しようという気概もビジョンもまるでなく、博物館というよりこれを一個の物置視して、学術的な配列もせず、運び込んでは適当に転がしておくだけというのが実状であった。
一般公開もしておらず、訪客といえばせいぜい物好きな貴族院のお偉方程度のものなので、敢えて顧みる必要もなかったらしい。
「馬鹿げている。文化的損失もいいところだ」
見るに見かねた司法省が苦言を呈した。
「帝室博物館のように、あるいは逓信博物館のように。この種の事業は趣味を以って献身的に努力する人材を主任に据えねば、到底うまく回らぬものだ。どうも連中はその辺を、欠片も理解しておらぬ」
そう言って管理権を我が方へと移譲さすべく動きもしたが、成果が実るより先に関東大震災が起きてしまった。
炎にしてみれば格好の燃料もいいところである。ほんの一部を除いて、その悉くが烏有に帰した。
好事家どもが歯ぎしりするほど悔しがるのも無理はなかろう。
その宝の山が、瓦礫の山と化している。
しおたれるのも道理であろう。
のち、焼け跡から回収された品の一つに、島田一郎の日本刀が含まれている。
なんの因果か、紀尾井坂の変を惹き起こしたこの兇刃は大震災の猛火にも耐え、今なお警視庁の一室で、昏く輝き続けているのだ。
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