穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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家康公と東郷元帥・後編 ―猛火を防いだ物惜しみ癖―

 

 吝嗇――物惜しみする心の強さも、東郷は家康に劣らなかった。


 たとえば菓子や果物の類を贈られたとする。受け取った東郷、箱を捨てないのはもちろんのこと、その箱を覆っていた包み紙や、あまつリボンの一本までをも、破らないよう注意深く取り外し、皴をのばしてしっかり保存していたというのだから、権現様もご満悦の吝嗇ぶりであったろう。


 で、電気スタンドの笠が破れたりすると、すかさずこのリボンを取り出し、包帯のようにくるくる巻いて、何食わぬ顔で点灯させ続けるのである。
 あまりのことに見かねた家人が、


「そこまでせずとも、旦那様」


 新しいのをお求めになっては――と半分哀願するような口調で説得しても、東郷自身はてんで平気で、


「いや、これでよい。これでも充分間に合うよ」


 道具は限界まで使い尽くすという年来の所存を、些かも変じなかったからたまらない。

 

 

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(元帥自書の座右の銘「不自由を常と思へば不足なし」)

 


 東郷の吝嗇気質は、彼の屋敷の到る所に反映していた。


 たとえば障子の貼り替えも、穴の開いた部分にしか施さない。無事なところは、何年でもそのままほっぽっておく。日に焼けて赤茶けようがお構いなしだ。このため東郷邸の障子はどこも、新旧混交するまだら模様になっていた。


 それから前回でも触れたように、最初は三百坪だった地所を、三回に分けて少しずつ殖やしていった影響だろう。気付けば彼の敷地の中には古井戸が三つも存在し、ただでさえ上下水道の発達しつつある今日、明らかな無用の長物と化していた。


 当然、家人は埋めようとする。


 が、平八郎はこのときも物惜しみ癖を発揮して、


「いや、何か役に立つだろうからそのままにしておけ」


 ついにこの動きを差し止めてしまった。


(やれやれ、また旦那様のご病気が)


 いささか食傷気味な家人たち。


 ところがこの古井戸が、後に思いもかけぬ偉大な効果を齎すのである。


 のち・・とはつまり、大正十二年九月一日。そう、関東大震災発生の日に他ならなかった。

 

 

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(焼け落ちた神田橋)

 


 地震発生間もなくにして都内各所から上がった火の手は、東郷邸の鎮座する麹町にも容赦なく押し寄せた――と、安部真造は物語る。


 ちょうど書棚に『大正大震災大火災』が整列していた。震災から僅か一ヶ月の早きにして大日本雄弁會・講談社が出版し、瞬く間に数十万部を売り上げたベストセラーだ。以前の古本まつりで手に入れた。


 引っ張り出して、附属している「東京大火災地域及罹災民衆団地図」を覗き込む。

 

 

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 麹町一帯にクローズアップしたものだ。


 次いで、東郷邸の位置を探す。


 こちらは現在、東郷元帥記念公園となっているから、特定は割かし容易であろう。

 

 

 


 ポインタが立ったあたりを上の古地図と対照させると、なるほど赤い斜線が引かれ、一帯に火が及んだことが明白になる。


 しかしながらこの火炎地獄の中にあっても、東郷邸のみは焼けずに済んだ


 何故か、などとは訊ねるだに野暮であろう。例の三つの古井戸、その深みより汲み上げたる潤沢な水の恩恵だった。

 

 


 そも、なにゆえ関東大震災はあのような、帝都・東京を灼熱世界に一変せしめ、十万を超える命を奪い、その二十倍の被災者を生み出す、未曾有の災禍となったのか?


 同程度の規模の地震は過去幾度となくあったというに、何故今回に限ってこのような――と、『大正大震災大火災』の序文に於いて三宅雪嶺は問いかける。


 雪嶺、更に筆を進めてその理由わけを、


 ――井戸をつぶし、火除地を除いたのに因ることが多い。


 と説破している。


「耐震耐火」と大書された近代建築の金看板を鵜呑みにし、もはや火の用心など過去の遺物と見下して、緩みきった個人個人の警戒心。そこに加えて利欲一辺倒の精神で、わずかな土地目当てに井戸はうずめる火除地は塞ぐ。


 つまるところ、「文明に茶毒」されたところが大きいという論調だ。


 このあたり、どうも幸田露伴も同意見であったらしい。

 


 市街の通行の広狭、空地の按排等も、今少し好条件であったなら震災火災によりて惹起された惨状を今少し軽微になし得たであらうし、又水道のみに頼る結果として、市中の井を強ひて廃滅せしめた浅慮や、混乱中を強ひて嵩高な荷物を積載した車を押し通して自己の利益のみを保護せんとした為に愈々混乱を増大し、且荷物に火を引いて避難地をまで火にするに至った没義道な行為や、さういふ類の事が少かったら、今少し災禍を減少し得たらうことは、分明である。(序文)

 

 

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 ところがここに、例外があった。


 東郷邸のみは「強ひて廃滅」せしめられた古井戸を三つも所有し、水道が止まろうとも消火活動を行うことが出来たのだ。


 とはいえ、これはなまなか・・・・な挑戦ではない。なにせ相手は、三日に渡って帝都を焼き続けた猛炎だ。「夜に入ると火の手は愈々猛烈になり邸を取巻いて四方から熱気を煽り立て、大きな火の塊りや、真っ赤に焼けたブリキ板が飛びこんでくる有様だ」と『東郷元帥直話集』には記されているから、通常の神経の持ち主ならば腰砕けになり、泡をくって退散すべき景況だろう。


 実際、令息の東郷ひょう氏は叫ぶように陳言している。もう諦めて、立ち退くべき頃合いでは、と。


 しかしながら、平八郎は肯んじなかった。

 


「いや、もう少し待たう……あの坂の塀を壊せばいつでも出られるから危険はないよ」
 と云って動かうともされない。見るに見かねた人々が、
「閣下お危なうございます。どうぞこの場を御立退下さいますように」
 うったへるやうに勧めるが、元帥は頑として動かうとはなされない。
「折角ぢゃが、私は居られるまで此処に居る」(275頁)

 


 一連の、根が生えたような頑張りぶりは、


 ――この家が燃え落ちるのなら、わしはそれを見届けてやらねば。


 という、一種悲愴な決心が基にあったとされている。

 

 

Gigantic cumulonimbus in the sky over Tokyo right after the Great Kanto Eartquake

 (Wikipediaより、火災によって発生した積乱雲)

 


 いや、それは決心・・などという硬質な物言いとはまた別で、もっと纏綿な、情緒というのがあるいは相応しいやもしれぬ。


 明治十五年の入居以来、ずっと住み続けて来たわが家だ。


 東郷の気質から推し量って、もはや単なる物質ではなく、己が分身の感すらあったに違いない。


 その「分身」が死のうとしている。ならば彼の臨終を、おれが看取らずしてどうするか――伊東の別荘で夜空を眺め、

 

照る月の澄みわたりたる山高く
しづかなりつるこころきよけき


 の三十一文字をものしたほどに詞藻豊かな東郷だ。そんな感慨があったとしても、あながち不思議ではないだろう。


 が、周囲の者は別の解釈を施した。


(さてこそ、元帥はここで死ぬ気か)


 武運つたなく、艦が撃沈されるとき、運命を共にする艦長というのは珍しくない。彼らは咄嗟にそれを思った。


(なんということだ)


 思った以上は、もうそれ以外に別の発想は湧かないらしい。況してや斯くの如き、切羽詰まった窮境に於いては猶更だ。海軍軍人の理想たるべき精神性を目の当たりにして、人々は戦慄し感動し、それ以上に使命感に燃えだした。


 ――これほどのお方を、あたら死なせてなるものか。


 という義憤にも似た熱情である。家人のうち、得手勝手に逃げ出す者は一人としてなく、ついには地域の青年団まで合流し、


 ――東郷さんのお邸を焼いてはならぬ。


 のかけ声のもと一致協力、消火活動に邁進したその結果。ついに満目荒寥、一面の焼け野原と化した麹町の只中に、しかし東郷邸のみはぽつねんとたたずみ、震災前からさして変わらぬ姿を留めるという、嘘のような光景が現出された。


 人界の奇蹟といっていい。

  

 

Togo gensui kinen koen

 (Wikipediaより、東郷元帥記念公園)

 


 東郷邸は、結局のところ元帥よりも長く生きた。


 公園として整備された今となっても、その地下には「震災対策用応急給水施設」が存在し、いざ事が起きた場合に備えて水が蓄えられている。

 

 

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