人はときに思いもかけず、歴史の見届け人となる。
昭和石油株式会社社長、
それはファーンボロー国際航空ショーで発生した事故だった。
(Wikipediaより、ファーンボロー国際航空ショー)
1920年に端を発し、1942年以降は偶数年の定期開催が決められて、つい2年前の2018年にも第51回目が営まれた、伝統あるこの行事。世界最大規模の航空機の見本市に、しかし早山は、さして乗り気ではなかったという。
――技術者でもない、このおれが。
別に乗り込むでもなしに、ただ飛行機が飛ぶのを眺めて、何の面白味があるであろうか。ただ首が疲れるだけのことではないか。
(しかし、この客の入りようは凄いな)
うすら寒い土曜日の午後、会場に詰めかけた観衆の数は実に20万人に届いたという。
最新式のジェット機よりも、彼らの熱狂ぶりこそが、早山の興味をむしろ唆った。自分が思っていたよりも遥かに強い勢いで、航空業は発達しそうだ――。
物思いに耽る早山の頭上で、ついに運命の機体が姿を現す。
型番はDH.110。
「
大観衆が見上げる空を大きく縁取り、飛行場の真上にさしかかった瞬間だった。突如としてビクセンから異様な爆発音が鳴り響き、何か黒い塊が二つばかり放たれる。
(あっ)
と息を呑んでる暇もなく、今度は尾翼が千切れ飛ぶ。
明らかな空中分解の模様であった。
(こ、これはいかぬ)
先に飛び出した「何か黒い塊」は、ぐんぐんこちら――観客席へ近付いてくる。
ある時点から、早山はその正体を看破していた。
(エンジンだ)
ビクセンのジェット・エンジンが、さながら隕石か何かのように、物凄い勢いで宙を飛ぶ。
早山は思わず首をすくめた。
その頭上、ほんの30メートルぽっちのところをエンジンが通過。
一拍置いて、100メートル後方の小高い丘に激突し、砂煙と、轟音と、そして何より肉片を、四方八方に飛散せしめた。群衆は、そこにもギッシリ身を寄せ合って、空を眺めていたのである。
すし詰めだったといっていい。そのことは、29名という死者数が何よりも雄弁に証明している。
ハッとわれに帰ったときには、場内は死の如き静寂である。エンジンの落ちたあたりに薄い煙があがっている。二十万人の眼はその一点に集中している。しかし、二十万人の足は動かない。やがてささやきにも似たざわめきがおこり、気がついてみると側にいる婦人達が青くなって倒れたり、しくしく泣き出したりしている。現場には救急車とトラックがかけつけて救助に当たっている。よくは見えないが、機敏にそして整然とはかどっているらしい。動いているものはそれだけであって、観衆は飽くまでじっとしていて動かない。(『財人随想』267~268頁)
絹を裂くような悲鳴、蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う人々――。
フィクションにありがちなそれらの要素は、この場に皆無であったという。
現実が、虚構を超越した。これこそジョンブルの面目躍如、牛のような糞落ち着きっぷりに他ならない。
やがて場内アナウンスが、いとも荘重に木霊した。
「まことに遺憾なことである、尊き犠牲となられた方々に対し謹んで哀悼を捧げる、しかし我々の航空機発達の蔭には、かかる尊き犠牲を幾度か経験して来ている。今日のショウはこのことの為に中止することなく、残りの行事をやがて再開するであろう」(268頁)
その言葉通り、たった30分後にはもうプログラムが再開されて、人々は当日の目玉であった四発ジェット爆撃機に歓呼の声を上げていた。
(なんということだ)
感動すべきか戦慄すべきか、己の心を持て余しかける早山であった。
ビクセンの墜落による被害たるや尋常一様の域でない。繰り言になるが、死者だけでも29名、負傷者に至ってはその倍以上――。
にも拘らず、この切り替えの早さたるやどうであろう。不屈どころの騒ぎではない。ナチスドイツの度重なる空襲にもへこたれず、この民族が第二次世界大戦を戦い抜けた
(Wikipediaより、空襲を受けたロンドン)
なお、この事故を受けファーンボロー国際航空ショーは安全基準を厳格化。
英空軍はビクセンの配備予定をキャンセルし、代わりにジャベリンの導入を決めている。
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