カリフォルニアを筆頭に、合衆国にむらがり湧いた排日移民のムードほど、大正日本の人心を激昂させたモノはない。
三国干渉の屈辱に匹敵、あるいは凌駕し得るほどその勢いは猛烈で、朝野を挙げて怒り狂ったといっていい。
拳も固く、顔を真っ赤に染めたのは、血の気の多い若者の特権ばかりにとどまらず。
もはや静かに老い朽ちてゆくのみの
「こんなことなら攘夷の志を捨てるのではなかった」
と、渋沢栄一が歯噛みして口惜しがったのは、蓋し有名な巷説だろう。
半世紀前、さんざ世間を騒がせた「尊王攘夷」の時代正義が再び息を吹き返す。一度生まれたものは、そう簡単には死なぬとは、まことによくも言ったもの。往年の狂気が、日本社会に急速に返り咲きを見せていた。

(『SEKIRO: SHADOWS DIE TWICE』より)
そのことは、明治の元勲・大隈重信の心理にも、むろん例外たりえない。この人はこの人で、日に日に募る排日移民の妖雲を深刻に危惧し懸念しており、これを振り払わんがため、あらゆる努力を惜しまなかった。
具体的には、例えば
「諸君はキリスト教を宣伝する為に日本に来てをる。キリスト教の真髄は博愛だ、博愛は皮膚の有色、白色に依って変化あるべきものでない。凡ての人間を兄弟姉妹として愛する精神が、日々の行動に現るゝことが、何よりも有力なる説教である。諸君は日本に来て、キリスト教を説く為に、幾多の艱難に耐へて、努力してをられることには敬服するけれども、若し諸君の祖国の英国、又は米国が、その有色人種に対する態度に於て、諸君の説くところと全然矛盾するならば、かゝる行動は、諸君の言語によって説教さるゝことを水泡に帰せしむるであらう。今や諸君は日本人にキリスト教を説くよりも、翻ってその祖国の政治家に向って、キリスト教を実践せしむることに努力すべき重大なる時機に直面した」
このような忠告を与えたという。
言いながら、あるいは大隈、キリシタン禁制の是非をめぐってハリー・パークスとやり合った青春時代の思い出が、果たして脳裏によぎったか。
思えば奇しき因縁である。

(viprpg『ルナばあちゃんとウェカピポの妹の夫』より)
更にまた、別の機会に臨んでは、渡米間近の日本人をつかまえて、
「仏教は慈悲を説く。平和は我々の理想だ。今日米国がアジア人に対して行うてをるところは、仏教から見ると罪悪だ。仏教から見て罪悪とするところは、恐らくキリスト教から見ても同様であらう。人間には人間らしく生きんとする強き意欲がある。アジア人に対する余りに不法なる待遇は、遂にアジア人を駆って如何なる事変を起さしむるかも知れない。我々仏徒は、世界の平和を愛するものであるから敢て米国の反省を求むる。キリスト教国がアジア人排斥を行ひつゝ、アジア人に平和を説くのは、アジア人に絶対服従を強ふると同じだ。それはキリスト教の真精神ではない、といふことを教へてやってくれ」
こんな激励を行った上、背中を叩くようにして送り出したそうである。
ほとんどまるで敵前上陸寸前の兵への訓示も同然だ。
実際問題、大隈の語り口たるや、鼓を打つように小気味いい独特の調子が底に在り、遥かな時を隔てても、読み手の心拍・体温を上昇させる効がある。況してや現場で、リアルタイムで、熱烈火にも等しい視線を真っ直ぐ注ぎ込まれつつ、こんな演説を打たれたら、そりゃあ勇気百倍し、この世の何をも恐れぬ心地になるだろう。

豪放磊落、型破りで音に聞こえた後藤新平をしてさえも、
「どうも大隈の親爺は喋り過ぎるので困る。あの親爺の喋る合間々々を見て話を進めて行かなければならぬのは中々骨が折れる。丁度敵の十字砲火を冒しつゝ、塹壕を掘って進むやうなものだ」
斯く唸らせたほどの漢だ。
早稲田の学祖は、やはりそれに相応しい、引力の主のようだった。
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