穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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大陸浪人かく語りき


 大陸浪人多しといえど、およそ須藤理助ほど著名な志士も稀だろう。

 

 彼がその種の活動に手を染めだした契機きっかけは、明治三十七、八年の日露戦争に見出せる。


「皇国の興廃この一戦にあり」。国運を賭したかの戦役に、陸軍軍医中尉として参加していた。出征先で須藤が見たのは、際涯もない大陸的な風景と、亡国的窮境にあえぐ支那細民の姿であった。

 

 

揚子江の日暮れ)

 


 それらの要素が、彼の精神を不可逆的に変質させてしまったらしい。


 戦争が済み、凱旋したのも束の間のこと、郷里の人に手柄話をゆっくり語ることもせず、取って返すようにして再三海を渡って征った。


 以降、支那大陸にて活動すること三十余年。


 士官学校の教官役に任じたり、一軍の参謀長として作戦行動を補佐したり、軍医中将の待遇で民国から招かれたりと、須藤の事績は多岐に及んで華やかで、要約の術にともすれば戸惑わされるほどである。


 南京に於ける日本人居留民のまとめ役という顔すらも、晩年には獲得していたようだった。

 

 

皇軍の南京入城式)

 


 さて、そんな須藤が広西省桂林を拠点と定めていた時分。


 当地の府知事が倉皇として彼を呼んだことがある。なんでも妻がにわかに病を得たらしく、至急診察してくれとのこと。


「承知致した」


 二つ返事で引き受けて、直ちに支度を整える。


 六人担ぎの駕籠に乗り込み、赴いた。こういう大時代的な代物を白昼素面で使うのは、日本人の神経上、どうにもこうにも滑稽感を免れないが、


(礼教の国だ、やむを得ぬ)


 高位の者に対しては、訪問にも然るべき威儀が必要であり、それを無視して押しかけた場合、どうなるか。


 火を見るよりも明らかだろう。相手は「面子を蹂躙された」と怒髪天を衝くようになり、結果無限に話が拗れる。その法則は、急患の場合も容赦なく適用されるものらしい。


(仕事を円滑に遂げるため、忍ぶべきは忍ばなくては)


 そのように己に言い聞かせ、須藤は羞恥に堪えている。

 

 ところが、馬鹿な事態になった。


 府知事のやしきに到着しても、門番が邪魔をし、通さない。


「入れて欲しけりゃ、門銭を出せ」


 どうやら婦人の発病をまだ知らされてないらしく、常の客にそう・・するようにぬけぬけと、賄賂の徴収に勤しむのである。


「おい、ふざけるな」


 あまりに愚劣な展開に、流石の須藤も堪忍袋の緒を切った。


 駕籠をぐわらり・・・・と開け放ち、


「貴様こそ銭を払って俺を迎えろ、さもなきゃあ俺はここを通らぬ、ああ通ってやらぬとも。その時は、いいか、お前の首は熟柿みたいにはたき落とされ、どぶ・・ン中に転がるぞ」


 怒鳴りつけると、さしも厚顔な門番も何か直覚したらしく、急に腰を低くしてすごすご門を開きにいった。


 一見すると取るに足らない、些細な事件。しかしこういう日常の合間合間に於いてこそ、民族性とは出るものだ。


 三十余年のはたらきを通し――須藤理助も支那人性質サガをたっぷり知った。

 

 

(須藤理助)

 


 名うての「支那通」たる彼は、その立場から忠告している。日本内地の同胞へ、この「違いすぎる」隣邦に、どんな心構えで臨めばよいか。昭和十四年十二月、『雄弁』第三十巻の紙面を借りて――。

 

 実体験に厭というほど即したソレは、一世紀近くを経た現在も充分傾聴くに値する。

 


支那では、料理人は石炭や日用品の頭をはね、運転手はガソリンをのみ、別当は馬糧を食ふといふ調子に必ず盗みを働くが、それは普通のことであって、あまり罪悪とは考へて居らない。従って頭をはねさせまいと思へば、こちらで一割程度のコミッションを与へるやうにして、未然に盗みの防止策を講ずるほかはない」


一も金、二も金、金がなくては一歩も歩けぬのが支那である。
 日本人は、名誉を第一とするが、支那人は名誉だけでは、少しも有難がらない。名誉と金とが一緒に来て、始めて『發財』と有頂天になるのである。
 名誉と福利とを得ることが、支那人の理想であって、万民斉しく渇望するところである。それ故、支那大陸を旅行すれば、何処へ行っても、『名利棧』といふ屋號の飯店(旅館)がある。そこへ宿泊すれば、名利が得られるといふ縁起をかついで、こんな屋號が生れたのであらう」

 

 

(漫画・清水対岳坊)

 


支那人を指導するに当って、最も心してかからねばならぬのは、あまりこちらから下手に出るとつけ上がるといふことだ。与し易しと見れば、威張り散らし、しかも図々しくて横着だ。と云って、高圧的に出れば、寄りつかない。強いもの大きなものには服従するが、弱いもの小さいものの前では、実に尊大で、容易に屈しない。その狡猾さは、お話にならない位である」

 


 然り然り、「首を垂れる稲穂かな」は金輪際通じない。


 一度頭を下げたが最後、ぶん殴って這いつくばらせて靴裏で踏み躙ってくるものと覚悟しておくべきである。

 


支那人を指導して行くには、やさしくしてやるのも程度がある。あまりやさしくしすぎると、彼等は増長して、云ふことを聞かなくなる。矢張り、権力と金と勇気とをもって、恩威並び行ふことこそ、最も緊要適切なる方法であり、要諦であろうと思ふのである。それは恰も、馬を禦するのと同様で、手綱は寸時もゆるがせに出来ない。常にしっかりと手綱を締めてかかる必要がある」

 


 四千年来変わらない漢民族の本質に、須藤理助は確かに触れていたようだ。

 

 

 

 

 


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