以下はちょっと信じ難いような話だが。――
清朝末期、全国二十三ヶ所に設置された税関は、途方もない運営方針に打って出た。支那人の雇用拒否である。
自国の行政機構から自国民を叩き出し、態々高いカネを払って西洋人を招聘し、業務を遂行させていた。
これほどわけのわからぬ判断もない。流石は「矛盾」の古諺を生んだ土地だと、変に感心したくなる。
(Wikipediaより、神戸税関 本関)
後年「扶清滅洋」――排外主義をスローガンの一つに掲げた義和団が大盛況を呈したことから察せる通り、異人に対する支那の国民感情は、このころ決して良くはない。そりゃあそうだ、アヘン戦争に負け、アロー戦争に負け、そのたび国土は火に包まれた。怨嗟が渦を巻かない方がどうかしている。洋鬼子とか外魔とか、呼び名にあからさまな蔑みを籠め、率直に言えば人間以下の存在として看做す向きが強かった。
で、あるにも拘らず、なにゆえ税関などという歴とした国家機関の運営を、「禽獣に近い」西洋人に託すのか。
やむにやまれぬ事情があったからに相違ない。
その事情を、これ以上なく鮮やかにえぐってのけた日本人がかつて居た。咢堂・尾崎行雄である。明治二十八年刊の『支那処分案』で彼は言う。
支那官吏は、収賄盗窃を以て人間の常事と為す。故に之を税関に用ゆれば、検査に
人間世界にあるべきか、自国民のことをここまで信じられない政府というのが――。
悲愴を通り越して、もはや滑稽の相すら帯びる。
尾崎咢堂が初めて支那の大地を踏んだのは、明治十七年の夏という。
事前に多少の漢籍に触れ、おそらく支那とはこれこれこういう場所だろう、人々はこんな具合の習慣にのっとり、日々の暮らしを営んでいるに違いないと思う存分あたまの中に絵図を描いたものだった。
日本人の伝統的な特性である想像力の豊かさを、尾崎もたっぷり持ち合わせていたわけである。
その尾崎が、現実の支那を眼にするや、たちまち「茫然自失」してしまった。「蓋し事実の支那は、曾て書史に因て見聞せる者と、全くその形勢を異にすれば」こそである。
国家思想、忠義心、愛国心、団結力は、皆な保国の要素なるに、支那人一も之を備へず。此の如くにして独立を傾奪世界に保全し得たる事例は、余の未だ曾て知らざる所なり。(『支那処分案』)
列強に蚕食されて当然だ――そんな諦観が言外に含まれてはいないだろうか。
(Wikipediaより、1928年、上海バンド地区)
各省の総督巡撫は、養兵費を受くると雖も、常に之を私して、定数の兵馬を訓養せず。租税を徴課するに方っては、定制以外の巨額を収歛し、
貪官汚吏の巣窟としかいいようがない。
富豪・起業家逮捕のニュースは共産党支配下のこんにちでも屡々耳にするところである。
伝統は抜かりなく保全され、機能し続けているようだ。
「軍隊を有って居て他人の侵入を自らの力で防ぎ得る者でない限りは、支那に於て財産の安固を期しようなどは、以っての外の願ひであると謂はなくてはならぬ。支那に於ては帝王でない限り、富の集積、栄華の極致を遂げることは絶対に不可能である」。神田正雄のこの発言が、ますます説得力を増してしまった。
(大官の葬式)
想念世界に構築していた壮大華麗な支那の姿と現実世界の支那の姿は、差異天淵もただならず――まさにアビスとエリュシオンほどの開きがあったわけである。
未だ二十代も半ばであった尾崎にとって、幻想崩壊の衝撃は並大抵でなかっただろう。
しかしながらその衝撃から、
不幸にして支那人は、古来言と行とを別観するの習癖あり。其言ふ所は行ふ所に非ず。其行ふ所は言ふ所にあらず。言行一致を貴むの思想は、其最も欠乏する所たり。
特に其文章の如きは、唯だ浮誇皇張を是れ事とし、其字句聲調を重んずること、遠く事実の上に出づ。(中略)案内記の如きは、最も実境事実に違はざることを要するものなり。然るに其支那人の手に成れる者は、大抵事実を失し、旅客を誤まる。爾他万種の孟浪不経を推して知るべきのみ。(同上)
このような卓見を生みもする。
尾崎はやはり非凡な男であったろう。
彼が道破した通り、いつもいつもあの国は、言ってることとやってることが違うのだ。
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