試される大地だけではないか、わが日本国で、一角獣が棲息するとまことしやかに語り継がれてきた土地は――。
文献上に確認できる。
萬延元年、西暦にして1860年、函館から江戸へと飛んだ一通の書。栗本鋤雲が旧知に宛てて書き送った手紙の中に、該当する部位がある。
曰く、
「駒ヶ岳麓あたり異獣出る大さ子牛の如く、額に一角あり、長さ尺余時あり鹿部川を遊泳す。(中略)川を下る時は額端一角分明見るべし、身を隠し迅疾矢の如し、猛勢迫るべからず」
と。
(Wikipediaより、栗本鋤雲)
子牛ほどの大きさで、
額に30㎝前後の角があり、
脚は速く、地形地物に巧みに隠れ、とても追跡が及ばない。
この特徴は、どう見てもユニコーンの
前年結ばれた条約で、函館は既に貿易港として開かれている。栗本鋤雲、やがて小栗上野介の盟友となるこの彼も、西洋人と接触すること、ずいぶん多次に及んだらしい。
手紙の続きに、そのへんの機微が窺える。
「英のコンシル仏の文官(則ち僕の弟子)此の二人ワザワザ往きて見るなり、皆曰く犀なり、里人に聞けば山の主なり見る者隠して語るを欲せずと云ふ、試みに在住砲士吉良左馬之助(師直の子孫)差置きたり、運よく打殺さば検査し委細申述ぶべし」
どうも北海道の一角獣は、ユニコーンみたくスラっとした体躯でなかったようだ。
それよりこう、全体的にずんぐりむっくり、サイに近い姿形をしていたという。
サイといえば、中央アフリカのサバンナあたりでキリンやシマウマなぞに紛れて草を食んでいるイメージがある。まず以って寒冷地には
栗本鋤雲もその点疑問に思ったらしい。疑問を解消するために、執った手段が奇抜であった。高師直の子孫を名乗る砲術士を派遣したと、いったい何の判じ物だと突っ込みたくなる。
幸か不幸か、この探索は実を結ばずに終始した。
人間の好奇心はとめどもない。それはときに爆発し、大音響を轟かせ、四方三里――空間的のみならず、時間的、後代にまで尾を引く椿事を巻き起こす。
そういうことが、やはり幕末の北海道で起きている。
一角獣とは全然なんの関係もない話だが、せっかくなので触れておこう。
栗本鋤雲の手紙から、およそ五年後、慶應元年十月のこと。
英国紳士がやらかした。渡島地方は森村で、アイヌの墳墓を掘り返し、遺骨を盗み出すというとんでもない真似をした。
(アイヌの集落)
…為めにアイヌ部落に騒擾が起り、外交問題ともなり、その的確な証拠が得られたので、遂に馬の骨か何か不明な骨と賠償金を提供し、その責任者が箱館退去となって
この畜生ぶりはどうだろう。
蒐集慾に憑かれるや、命の危険、弾丸さえも意に介さずに走り出す。倫理、道徳、そんな甘っちょろい規範では止まらないし止まれない。如何にも当時の英国
まあ、被害者にしてみれば、ふざけるなの一言だろうが。
(アイヌの一族)
「露鷲英獅」呼ばわりもまたむべなるかな、だ。
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