穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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露鷲英獅の具体例 ―房総半島狼藉の顛末―

 

 対外姿勢の軟弱を倒幕の重大な口実として成立した明治政府は、しかしその初期に於いて明らかに、旧幕府よりも外圧に対して弱腰だった。


 その理由の詮索は、ひとまず措こう。


 眺めたいのは具体的な例である。大は堺事件から、小はこんなものまである。露鷲英獅ろしゅうえいしの片割れたるイギリス人が、千葉の田舎で惹き起こした騒動だ。

 

 

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川瀬巴水 「房州小湊」)

 


 英国紳士のごく一般的なたしなみとして、彼もまた狩猟を好み、否、ほとんど耽溺するといってよく、この極東の島国に於いてもその欲求を満足させようと目を光らせた。


 で、狩場として選定したのが房総半島の山野である。沖合を蛇行する黒潮の影響から、温暖な海洋性気候を示すこの土地は、人間のみならず動物にとっても棲み心地がいい。


 それらを獲物と為すために、鉄砲担いであちらこちらを逍遥する彼の姿が次第に目につくようになる。


 住民たちは内心薄気味悪さを募らせつつも、表だって排斥するような真似もせず、暫くの間は――撃ち殺される禽獣以外にとって――平穏無事な日々が続いた。


 ところが、問題のある日のこと。終日狩りに明け暮れても目ぼしい獲物に出逢えなかった英国人は、宿へと帰る道すがら、たまたま通過した村の小川で餌をついばんでいた家鴨あひるの群れに、物も言わず鉛玉をぶち込んだ。

 

 

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 彼が何を思ってそのような凶行に及んだかはわからない。ひとたび狩場に出ておきながら、手ぶらで帰っては英国男児の名折れとでも考えたのか、それとも単なる腹立ちまぎれか。


 いずれにせよ、現実はこうだ。鉛玉は群れの一匹に見事命中、即死させ、附近の畑を耕していた飼い主を、これ以上ないほど憤激させた。


「毛唐ッ」


 この飼い主は百姓ながら度胸のいい男であって、未だ硝煙の立ち昇る銃口をちっとも恐れる風がなく、泥まみれの手を拭いもせぬまま英国人に詰め寄ると、


「何をしやがる、いったいどういう料簡で、ひとさまの鳥を撃ちやがったこの野郎――」


 胸倉を取らんばかりの勢いで、矢継ぎ早の詰問に及んだ。


 が、英国紳士、急に日本語を忘れたような顔つきで、母国の言葉しか話さない。


 埒が明かぬと業を煮やした百姓は、最後の手段、縄でこの不届き者を縛り上げ、警察署まで引っ張ってゆくことにした。

 

 

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 驚いたのは千葉県警である。周知の通り、不平等条約によって領事裁判権を握られている日本は、外国人を裁判する権限がない。にも拘らず縄目の辱めを味わわせ、無理矢理にひっくくって来たとあっては、


(これは、大変なことになる)


 というのが、全署員の共通した思いであった。


 果たしてその通りの事態になった。


 件の英国人は速やかに東京へ護送され、英国領事館へと引き渡される。そこから談判が始まったのだが、先方の主張はのっけからもう凄まじい。


「家鴨が家禽ならば、何故家の中に飼っておかぬか。戸外に居れば、野禽と見て撃つのに何の不都合があろう」


 紛らわしい真似をしたお前が悪い、というのである。


 馬鹿な話だ。農家が家鴨を飼育するのを、愛玩用とでも思っているのか。


 まさかである。防虫・番鳥の効果を託して田に放たれる、「生きた農耕具」とでも呼ぶべき実用的な存在なりと、英国側もよくわかっている。


 承知の上で殊更にすっとぼけて見せるから、彼らはあくどいと言われるのだ。英国の言い分、更に続いて、


「にも拘らず、一人の英人を大勢の百姓が寄ってたかって袋叩きにした挙句、自由を束縛して警察に引き渡すとは無礼千万、以ての外の不都合である。彼が蒙ったこの重大な損害に、見合うだけの賠償を求める」


 こうなるともう、どっちが被害者でどっちが加害者なのかわからない。


 その後の調べでこの英人は事件当時、旅行免状を持ち合わせていなかったことも判明している。正しくは「内地旅行免状」と呼ばれるもので、外国人が居留地以外の地域へ出掛けたいと思った場合、外務省に要請してこれを発給して貰うのが規則であった。

 

 

Foreign Settlement in Kobe

 (Wikipediaより、明治初期の神戸居留地

 


 つまり家鴨射殺云々を抜きにしても、彼は重大な規定違反者であり、罪人である。


 日本側としては当然これを鉾先として、ぐりぐりと捻じ込んでゆくべきであろう。


 ところが、これはなんたることか。談判の席で日本側から免状に対する指摘の声など一切上がらず、ただひたすらに恐れ入り、


 ――寄ってたかって袋叩きにしたなどと、そのような事実は決して。


 どうにかなあなあ・・・・な空気のうちにこの一件を流してしまおうと腐心したからたまらない。しかもこの試みは成功し、英国人は高笑いしながらまんまと逃れ、千葉の農家は可愛い家鴨を殺され損の泣き寝入りとは、馬鹿にするにも程があろう。


 心ある者はこぞって政府の弱腰を糾弾し、何のための維新かと憤った。


 この一件に味を占めたわけでもなかろうが、世に「英国の横暴」として憎まれた事件は暫く続き、まったく枚挙に暇がない。


 大隈重信などは山積するそれら事例にあるときとうとう堪忍袋の緒が切れて、


「パークスを斬って自分も死ぬ」


 と喚き散らした狂態を、多くの政府吏員が見届けている。

 

 

ParkesAgression

 (Wikipediaより、パークス襲撃事件)

 


 が、公使一人を斬った程度で時局が好転するわけがない。


 所詮、力なき民族に独立はないのだ。嬲られ、毟られ、強者の都合に翻弄される。その現実を、歴史は懇切丁寧に教えてくれる。

 

 

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