日清戦争の期間中、現地に展開した皇軍をもっとも困惑させたのは、清国兵にあらずして、イギリスの挙動こそだった。
そういう記事が『時事新報』に載っている。明治二十八年三月二十四日の上だ。曰く、「我軍が敵地を占領するの場合に、
筋金入りの蒐集狂といっていい。
生命よりも珍品か。
流石は大英博物館を、コレクトマニアの極北を築き上げた民族である。
もっともイギリス人の戦場に対する恐怖感情の欠乏は今に始まったことでなく、日清戦争から溯ること約四十年、クリミア戦争の時点でも往々にして発揮され、共闘相手のフランス人らをたまげさせたものだった。
イギリス軍将校たちは、フランス人料理長、カフィル人の従者、お気に入りの馬やワイン、猟銃、犬、そして場合によっては妻までも連れて遠征に参加した。(フィリップ・ナイトリー著『戦争報道の内幕』)
帷幄に婦人を引き入れるなど、秀吉による小田原包囲じゃあるまいし。
それになんだ、何のために犬だの猟銃だのが必要になる、戦場でまでキツネ狩りを楽しみたいのか、こいつらは。蒐集以外に、狩猟好きも病気の域だ。
のちには「旅行紳士団」の一行まで現れた。これは金持ちの若いイギリス人グループで、ローズ競技場でクリケット試合を観戦するような気分で戦争見物にきたのである。イギリスに一日先立ってロシアに宣戦布告したフランス人は、イギリス側がはたして本気なのか信じられなかった。(同上)
彼ら紳士を表すに「生一本」ほど縁遠い言葉もないだろう。明治二十七・八年、日本人もついにそれらを我と我が身で味わった。
これはこれで貴重な体験に違いない。カルチャーショックの一種でもある。その衝撃を『時事新報』は、
「戦争の邪魔と云へば云ふ可きなれども、是等の事は勿論上官より命ずるにも非ず、少年の士官等が物数寄の為めにするものにて、云はば小児が玩弄物に目を着けて之をねだると同様、誠に無毒の処行にこそあれば敢て咎むるに足らず」
しゃあないやっちゃなあと言わんばかりの雅量を発揮し、円満に包み込んでいる。
書き手の名前は福澤諭吉。
英国を文明の師表と仰ぎ、やがてきっといつの日か、出藍の誉を成就せよ――追いつけ追い越せと呼号していた人物だ。
(トーマス・ブラキストン。「ブラキストン線」を発見した英国人。クリミア戦争にも従軍)
その信念は、本稿を草した後であろうと些かも変動していない。
端から盲滅法な憧憬ではなかったということだろう。
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