楚人冠がこんなことを書いていた。
物の味といふものは、側に旨がって食ふ奴があると、次第にそれに引き込まれて、段々旨くなって来るもので、そんな風に次第に
料理漫画を片手に持しつつめしを喰うとやたらと美味く感ぜられる現象とも、これは原理を同じくすまいか。
この用途に具すために、『孤独のグルメ』や『鉄鍋のジャン』、『食いしん坊』等々を常に手元にひきつけている私である。
(『孤独のグルメ』より)
むろん、礼儀作法の上からいったら落第もまた甚だしいのは承知の上だ。
しかしながらこれをやるのとやらないのとでは、食欲に天地の差が生じ、唾液の湧きも鈍くなり、消化にまで影響を及ぼすような気さえする。
なあに気にすることはない、「礼儀とは人に快感を与ふること也、少なくとも不快の感を与へざること也」と大町桂月も言っている。要は人前でやりさえせねばよいのだと、不快にさせる相手のいない独りきりの自室に於いて何を躊躇うことやあると、TPOの三文字で後ろめたさを糊塗しつつ、私は今日も漫画片手にめしを喰う。
古人の言葉で、現代のサブカルチャーに相通ずるものというのは存外多い。
バウル・リヒテルの「青ざめた夢」なぞは
地球を一周するといふにも色々ある。
赤道直下二万四千八百九十九マイルをまはるのも地球一周なら、この間世界早まはりのレコードを作ったウィリー・ポーストの、北極圏近いところを選んで、一万五千五百マイルですましたのも、やはり地球一周である。今に賢いのが出て来て、北極か南極かの上に立って、くるくると自分の身体をひとつまはして、へい一周とやるか。(『山中説法』12頁)
この下りなぞ、『ドラえもん』以外のなにものでもないではないか。
ひみつ道具「アクションクイズ」の第三問目、「一分以内に西から東へ地球一周せよ」の模範解答。
偶然の一致か、それとも藤子・F・不二雄、楚人冠を知っていたか。
彼の年代から推し量るに、まんざら有り得ないことでもなく思われるが、どうだろう。
(Wikipediaより、南極点の標識)
矢野龍渓にも傾聴すべき言がある。
画にあれ、物語にあれ、総て人は単調を喜ばざるが故にや、男子に
規模こそ比較にならねども、偉人――たとえば織田信長やアーサー王や聖徳太子――を女体化したり、やたらと強い女剣士が男どもをばったばったと薙ぎ倒すという風潮は、龍渓の昔時から既に存在していたらしい。
そういった作品群に対して、彼は如何なる態度をとったか。
斯くてこそ、事物の配合、掩映の妙も生ずるなれ、正史ならぬ物語は総て面白きが宜し、女子にて妙なる場合には女子に改むるこそよけれ。(『出たらめの記』105頁)
正直私は度肝を抜かれた。
なんという寛容さであったろう。
それが歴史の真実と、読者をして誤認させるようなことさえなければ、いくらやっても構わない。信長を美少女にすることで結果物語が面白くなるなら、躊躇は無用、どんどんやれときたものだ。
これが本当に嘉永三年生まれの男の口吻かと、ほとんど我が目を疑いかけた。
しかし真理だ。
大声で真理と認めたい。
以前の怪談論といい、矢野龍渓の感性はつくづく私の共鳴を呼ぶ。
なかなかどうして、日本に人は絶えないものだ。
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