雲州にては人の来たりたるをキラレタといふ語習がある、同国人或る地方に在勤し、県知事汽船にて来着せるを県庁へ打電して、「イマ知事汽船ニテキラレ」と伝へたる為に、大いに県庁を騒かしたといふ(『日本周遊奇談』330頁)
電報にまつわる奇談である。
確かにこの文面だと、知事が船内で斬られたとしか思えない。
すわ暗殺かと騒ぎになるのも当然だろう。明治維新によって六十余州が統一され、関所というものが廃されて、人の行き交いが盛んになったはいいものの、言語世界は未だに統一されざるゆえに、よくこうした珍事が出来した。
県庁なればこそ、まだ笑い話にも出来る。
しかしこれが軍隊に於いて起こった場合、とても笑い事では済まされなかった。命令が伝令の口を経る度に内容を変化させるなど冗談ではない。陸軍士官学校や海軍兵学校に於いてもやはりその弊害は甚だしく、教官が生徒に向かって、
――このような状況下で、貴様はどのような処置を取るか言ってみろ。
と命じられても、東北や九州出身の者であると、頭の中では考えがちゃんとついているにも拘らず、それを口から簡潔に明晰に発射することが出来ないのだ。
その態度がいかにも危な気に見えるので、「志操薄弱」との評価を受ける者が事実として多かった。政府が標準語の教育に力を入れ、方言の排除に乗り出したのは必然の判断だったろう。
だが、しかし、それでもなお、
ジャローバッテンクサイこいしい
こういう「
芸術の威力というものだ。
これは東京に出て来た熊本人の懐郷の歌。東京語である「おやねえ、だって、です」をやめて、「ジャロー、バッテン、クサイ」という熊本語が慕わしいと詠んでいる。
前の二つはだいぶ有名なものだから、最後の「クサイ」について補足しておこう。この言葉自体には別段意味など籠められておらず、「ヨカクサイ」「バッテンクサイ」といったように語尾の添え言葉として使われる。
これについても井上円了にちょっとした奇談があり、
或人が肥後人に向ひ、何故に談話中にクサイクサイと度々いふかと尋ねたれば、其答に他国人は返事にヘイ、ヘイと繰り返す故であるといへるも面白い(同上、323頁)
とのこと。
こちらは井上円了自身が熊本弁で編んだ歌。正直なところ、意味がさっぱりわからない。
イカギエーとはなんだ、イカ釣りでもしたのか? それで釣った新鮮なイカと「ソーニャー」なる、これまた正体不明の何かを肴に酒宴を張りでもしたのだろうか? ――私の想像力では、どうにもここが限界だ。
言語の壁はまことに厚い。
コンゲン月エットナカバン
同じく九州、長崎県の方言歌。こちらはまだしも判り易い。
「コンゲン月エットナカバン」とは、「こんな月は滅多にないよ」という意味であろう。
イッチゴズミバ死ノウナシンジ
ところが日向国(宮崎県)に向かうと、再び意味がわからなくなる。
「ケヤーシカ」とはなんであろう、ロシア人の名前か? それに「死ノウナシンジ」の部分ときたら、『エヴァンゲリオン』の碇シンジ君に心中を迫っているとしか思えぬでないか。
幸い、こちらは円了が翻訳を用意しておいてくれた。「昨日見て今日さえも哀いが、一生見ざるに於ては死ぬであろうの意味である(同上、267頁)」とのこと。平安時代の公卿が詠むような恋歌であった。
ムテンクテンにオリャ、オッカナイ
ムテンクテンは「甚だ」の意。「無茶苦茶」からの転訛だろうか?
島ノアンコラハ、ウンネライ
伊豆大島に伝わる方言歌。アンコは娘を意味し、ウンネライは寝る時の挨拶である。
因みに朝の挨拶は「オキタナー」又は「クッタナー」、正月には「イワッタナー」と言う慣わしだった。
方言歌ではないが、折角なので伊豆大島に伝わる歌をもう二首ばかり挙げておこう。
色の黒いは親譲り
わたしゃ大島雨水そだち
胸にボーフラ絶えはせぬ
川のない彼の島に相応しい歌といっていい。
ヅール、二ヅール、三ヅール、
フクズル、フッパル、ステオイテ、
今カラフマトハ、ツヅカナイ
またわけのわからないのに出くわした。
出雲に伝わる方言歌である。
井上円了は「スをしに直し、フをヒに直し、ヅをジに直して見れば大抵分る(同上、265頁)」と述べているが、正直分かるかと叫び返したい。
「ワスハ雲スノフラタノ生レ」はいい。雲し、すなわち雲州。出雲には平田という地名があることから、「わしは雲州平田の生まれ」と見てまず間違いはないだろう。
だが、そのあとの「ヅール、二ヅール、三ヅール」がさっぱり分からぬ。
「フクズル、フッパル」はそれぞれ「引き摺る、引っ張る」を意味する出雲弁と思しきゆえに、言葉の印象から無理矢理想像をつけるなら、これは車夫の歌であろうか? 「ズール」とは車輪をズルズル引っ張ってゆく擬音か何かか?
それを三回も繰り返したから、今日はもうとても麓まで行けないよ、そんな体力は残っていない、とでも言いたいのだろうか?
なんというか、久しぶりに古文書読解に取り組んでいる気分だ。図書館で日本国語大辞典を脇にひきつけ、字句の解釈をめぐって耳から脳汁こぼれんばかりに考えあぐんだ学生時代。なにもかもみな懐かしい。
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