大正帝が未だ
御巡覧あそばされた鉄道局にて、特に脚を留め置かれた一室があった。
その部屋には、
(岡本帰一 「桃林」)
(なんと)
意匠美麗にして仕掛けは稠密。この手の品が少年の心にとりわけまばゆく映るのは、今も昔も変わらない。
興奮した面持ちで、扈従の者を引き寄せた。
ほそぼそと、なにごとかが囁かれる。
ほどなくして部屋の主が呼びつけられた。彼の名前は平岡
「殿下は其方の模型をいたくお気に召されたようである」
このように仰せつかったならば、感激してどうかお部屋の片隅にでもと自ら差し出すのが当時に於ける常識だろう。
ところがこの平岡熙なる男、元服前は手の付けられない悪童としてさんざん周囲をてこずらせ、
――善くなれば御大老にもなられようが、悪くすると巾着切りにもなりかねぬ。
ついにはこんな評価まで世間の口に上らせたほどの逸材である。
三つ子の魂百までも、と言うべきか。その特性が、この時も出た。
「
謹んでお断りさせていただく、といったのである。
(あっ)
同僚たちは息を呑んだ。上司に至っては顔色もない。扈従の者は、即刻この場でこいつを無礼討ちに処すべきかどうか考えた。
幸い殿下が聡明であり、アアソウカと未練気もなく振る舞ってくれたからいいものの、一歩間違えれば彼の首は飛んでいたろう。むろん、比喩ではなくそのままの意味で。
このとき平岡がおっ広げた大風呂敷は、やがて見事に回収される。されるのだが、それにしてもこの豪胆ぶりは、「独眼竜」伊達政宗と鎬藤四郎吉光にまつわる逸話を連想せずにはいられぬものだ。
該当部分を『シグルイ』から抜粋すると、
「上様はそなたの所有する名刀「鎬藤四郎吉光」を所望しておられる」
前日 秀忠の側近がそう伝えた このような仕来たりがあったのである
鎬藤四郎吉光は関白秀吉の遺品であり 将軍家に献上する宝物としてふさわしい品である
「上様に献上つかまつる品は家臣たるこの政宗が決定いたす
それを上様の方から童子のごとくねだるとは 将軍家の威信に関わり申そう」
これなどは目玉を食すよりも豪放な逸話であろう(七十六景「独眼竜」)
ただ、平岡は政宗と異なり、その野望を存分に遂げた。
日本最初の民間鉄道メーカーの栄誉を恣にし、体腔いっぱいに充満してはちきれんばかりに渦巻いていた創作熱を盛大に開放。心ゆくまでその精神を形にし続けることが出来たのである。
彼の破天荒ぶりを示すエピソードにはまったく事欠くことがない。たとえば明治十四年、日本鉄道株式会社の創立にあたり、時の長官井上勝に差し出した建白書などはどうだろう。
平岡の要求は、要約すれば次の二点。
一、日本鉄道株式会社に使用する車輌一切の設計を、拙者に一任されたく候。
一、同会社に雇聘する外国人を皆解いた上、其の監督を拙者に一任されたく候。
独裁権の要求である。
一から十まで、おれの好き放題にやらせやがれということだ。
それ以外の解釈は、ちょっと下しようがない。
(なんという男だ)
むろんこの要求は却下されたが、井上長官はただ一概に「推参なり」と切り捨てず、
「君の技倆に就ては夙に吾輩の見つゝある所なるも事情の許さざるありて今日に及べり、しかしながら将来は尚一層君の行為に注意すべければ相変わらず忠勤あらんことを望む」
態々慰撫の一言を送ったあたり、彼は彼で人を使う要諦をよく心得ていたのだろう。
(Wikipediaより、井上勝)
長者の風とはこういうものか。「鉄道の父」の異名は、なかなかどうして伊達ではない。
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