穢銀杏狐月

穢銀杏狐月

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

安政の大獄前夜譚 ―安政か、「闇政」か―

 

 タウンゼント・ハリスアメリカ合衆国を代表し、江戸城本丸表向の大広間で徳川家定と対面したのは安政四年十月二十一日のことである。


 それに先立ち、幕府要路の人々は、この一件がに齎す衝撃度合いを考慮して、なんとかそれを最低限に押し止めんと涙ぐましい努力を重ねた。


 日米追加条約の時点で既に、世情は沸騰の兆しを見せつつあったのである。


 攘夷論の卸問屋、水戸の烈公斉昭などは、「此度夷情切迫之儀に付存寄申上候次第」という書き出しからなる激越な建白書を送り付けて来さえした。

 

 

Tokugawa Nariaki

 (Wikipediaより、徳川斉昭

 


 無思慮に、なんの配慮も施さず、事を実行に移してしまえばそれこそ火薬庫に油を撒いて松明を投げ込むような事態となろう。堀田正睦を筆頭に、筒井政憲川路聖謨岩瀬忠震といった俊英たちは、そのことをよく知っていた。


 彼らがどれほど苦心して、智慧を絞ったものであったか。八月二十八日の布達を見れば、たちどころに瞭然たろう。

 


豆州下田表滞留のアメリカ官吏、国書持参、江戸参上の儀相願ひ候処、右は寛永以前イギリス人等も、度々御目見え仰付けられ候御先蹤も之あり、且つ条約取替せ相済み候国々の使節は、都府へ罷越候儀、万国普通の常例の趣に付、近々当地に召呼ばれ、登城拝謁仰付けらるべしとの御沙汰に候。此度の心得の為め向々へ相達し候。

 


 何一つ間違ったことは書いていない。
 字句の選定にも、よほど気を遣った痕跡が見て取れる。


寛永以前」、すなわち家康大御所時代、かの神君が国外使節を引見したのは一度や二度では到底済まず、数多に及び、中でも特に語り草となっているのは慶長十四年(1609年)のサン・フランシスコ号座礁にまつわる一件だろう。

 

 

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 前フィリピン総督、ドン・ロドリゴ・デ・ビベロ・イ・アルベサを乗せ、メキシコへ向かっていたこの船が上総沖で嵐のために難破して、今でいう千葉県夷隅郡御宿町に漂着したとき。


 幕府はこの不幸なるスペイン人一行を手厚く保護し、また江戸に於いては秀忠と、駿府に於いては家康と、それぞれ直に対面しさえしているのである。


 家康との対面がどのようにして行われたか、その様子をドン・ロドリゴ自身の手記から抜粋すると、

 


 皇帝は青色の天鵞絨の椅子に坐し、その左方およそ六歩のところに私のためにこれと少しも異るところのない椅子が備えてあった。皇帝の衣服は青色の光沢のある織物に銀でたくさんの星や半月を縫い出したものであった。腰には剣を帯び、頭には帽子とほかの冠物などを冠らず、髪を結んで色紐で結んであった。彼は六十歳で中背の老人だった。尊敬すべき愉快な容貌であった。太子(註・秀忠のこと)のように色が黒くない。また彼よりも肥満していた。

 


 同じ拵えの椅子を用意し、着座するを許すなど、日本古来の形式を全然忘れ、あからさまに向こうの習俗に合せたもので、もしこのときの情景を、


 ――鎖国は開闢以来の国法。


 と無邪気に信じ込んでいる単純剄烈な攘夷志士が目の当たりにしたのなら、ショックのあまり心が壊れ、わけもわからず腹を切ってしまったに違いない。

 

 

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 家康のこの破天荒な馳走ぶりには、当時スペインが握っていた最先端の銀精錬法を欲する底意があったという。


 どういう情報網を持っていたのか、家康は、スペイン人が遠く離れた――それこそ地球の反対側まで――南米の地で何をしているかよく知っていた。彼らがここを征服し、植民地化してからというもの、如何に盛んな勢いで銀山を開発しているかを。


 飽くなき欲は、往々にして技術進歩の動力となる。果たして彼らは十六世紀の半ばごろ、水銀アマルガムなる銀鉱石の精製方法を確立しており、これを積極的に用いることで、たとえばペルーのポトシ銀山などは大いに活況を呈するに至った。


 家康はこれを欲しがったのだ。


 この男の対外感覚の鋭さは、江戸時代どころか日本史全体を総覧してもひときわ群を抜いていた。

 

 

Silver crystal

 (Wikipediaより、銀)

 


 ――権現様に於いて、既に斯くの如しである。


 然らば我らがその行跡に倣ったところで、なんの否やがあるだろう。堀田正睦以下幕府内の開国派は声を大にして言いたかったに違いない。


 正論である。


 一分一厘、反論をはさむ隙もない。


 ところがこれほど明快な「理」が、どういうわけか攘夷志士にはわからない。


 否、彼らにはそも最初から、理解しようとする気がないのだ。であるが以上いくら説得を重ねたところで骨折り損のくたびれ儲け、彼らはいよいよ激昂し、刀槍を用いた直接的手段に訴えてくるだけだろう。


 八月二十八日の布達以来、不平の声は天下に漲り、またぞろいきり立った斉昭が、


「夷狄をして都門の地を汚さしむるのは国辱である。況して君前に近付けるに至っては、城下の盟を結ぶに等しく、言語道断の沙汰である」


 一声叫ぶやたちまちこれに志士が和し、安政」の元号を「アン政」とかけた落首の類が横行し、ために溜間詰の連中までもが狼狽のあまり腰を浮かせて、


「ハリス引見の一件は、中止した方がよいのではないか」


 という趣旨の意見書を、連署して差し出したほどだった。


 が、堀田正睦は頑張り通した。


「米国総領事が将軍に謁見を請ふのは使臣の節であり、閣老に大事を告げんとするのは、これ友邦の誼である。又何の疑ふことかあらん。衆議は過慮である。用ふるに足りぬ」


 そう言って総ての反対意見を退けて、あくまでこの一件を遂行し抜く構えを見せた。


 信念の発露といっていい。


 そう、堀田はかねてより、


「国運を拡張するの道は開国にあり、国力を増強するの策は通商にあり」


 との思いを胸に秘めたる男であった。


 結果的に彼の強気が功を奏して、十月二十一日の対面は、つつがなく完了することとなる。


 上段には圧畳七枚を重ね置き、更にこれを錦で包み、四隅に紅の大総をあしらったものを将軍の座席としたというから、当日の現場の華やかさは、ほとんど舞台さながらだった。

 

 

Tokugawa Iesada

 (Wikipediaより、徳川家定

 


 堀田は、さぞや鼻高々であったろう。彼もこの場に居合わせていた。下段、東の方に松平忠固久世広周、内藤信親たちと並び座し、その対面たる西の方には井伊直弼が、これまた松平忠矩などと共に居流れている。

 


 が、このとき既に、このきらびやかなる舞台の裏で。


 幕末史の流れを決定せしめる、重大な事態が進行していた。


 烈公斉昭が水戸から四方に鼓吹した攘夷論はやがて京都にたどり着き、先住の尊王論と激しく反応。電磁的な融合を遂げ、極めて可燃性の高い、おそるべきイデオロギーの発生を見る。


 その思想の使徒どもが、王城の地で暗中飛躍し、年来幕府に不平塗れの貧乏公卿を抱き込んで、急速に影響力を増しつつあったということを、迂闊にも幕臣の誰もが見逃していた。

 

 

家康とドン·ロドリゴ

家康とドン·ロドリゴ

  • 作者:岸本 静江
  • 発売日: 2019/11/14
  • メディア: 単行本
 

 

  

  


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