穢銀杏狐月

穢銀杏狐月

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

平岡熙ものがたり ―その血筋―


 そも、平岡の家系をたどってみると、その遠祖は家康公が関八州に入府した折、江戸城御掃除番を担当していた平岡庄左衛門まで遡り得る。


河内国に鎮座まします平岡大明神に縁因ゆかりある者」


 と称したらしいが、なにぶん戦国時代の話、どこまで信用していいものか。


 兎にも角にもそれ以来、幕臣として代々禄に与り続けた。

 

 

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Wikipediaより、枚岡神社拝殿) 

 


 やがて幕末に逢着したとき、当主は第十三代目、平岡熙一きいちなる男。名前からおおよそ察せる通り、平岡熙の父親である。


 この男はこの男で、息子に負けず劣らずの「出世魚」に他ならなかった。一介の御家人から出発したにも拘らず、たちまち才能を見出され、御目付・御留守居役といった諸役に歴仕。ついには田安中納言――「十六代様」徳川家達の父親である――の附家老にまで登り詰め、江戸城明け渡しの談判の席にも同坐したというのだから、尋常一様の器量ではない。


 無血開城という主人の願いを叶えんがため、西郷隆盛岩倉具視といった綺羅星の如き人傑どもと、懸命に折衝したという。


 維新後は一旦静岡に隠れたが、やがて縁あって新政府に召し出され、改めて宮仕えにあくせくすることとなる。――それも枢要中の枢要、「政府の中の政府」とまで謳われし、内務省に於いてで、だ。


 この「転職先」で、熙一は内務少丞まで進んでいる。元幕臣でありながら、なんと目覚ましき出世であろう。明治九年の省内改革に際して官を辞したが、その後は安田善次郎から特に請われて、理財の事に関わった。晩年に至るまでその精力的な活動が熄むことはなく、本当に人生を生き・・尽くした・・・・漢だったに違いない。

 

 

Zenjiro Yasuda

 (Wikipediaより、安田善次郎

 


 息子熙の血管中にも、燃えるが如きその熱血は余すところなく受け継がれている。


 圧倒的といっていい、そのエネルギーの大渦に指向性が備わったのは、実に明治四年の話。このとし、十六歳になった熙は生れて初めて洋行をした。


 行き先は太平洋の向こう側、アメリカ合衆国西海岸。船上にて波に揺られること十数日、やがて着港したサンフランシスコの地に於いて、平岡青年は運命的な出会いを果たす。


 それこそ即ち、汽車だった。


 彼はこの後、森有礼の周旋もあってボストンに住む教育家某の手に預けられ、学生生活を送るわけだが、言うまでもなくボストンは東海岸に存在する都市。


 サンフランシスコとは、4000㎞以上の隔たりがある。


 膨大極まりないこの距離を、平岡熙は汽車の旅で越えたのだ。地平線まで広がる荒野、おどろおどろしい瘴癘の地。如何なる苛烈な景色の中にも鉄路は敷かれ、その上を、列車は力強く進行してゆく。

 

 

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(これか)


 これが文明か、文明というものの威力なのか――と。


 感動と共に悟らざるを得なかった。


(おれの一生は決まった。必ずや我が日本国にも、斯かる利器を齎さねばならぬ)


 一度固めた覚悟の臍は、その後決して緩むことなく。


 小学校からグラマースクールへ、更に進んでハイスクールへ通う傍ら、暇さえあれば平岡は、機械に関する書物を紐解き、内容に没頭するのを楽しみとした。


 そのくせこの男は学校の成績も高水準を維持していたというのだから、多芸多才としか言いようがない。


 順調に修学過程をクリアして、ハイスクールを卒えるのも間近に迫ったある日のこと。彼はなんと校長から声をかけられ、


「ひとつ演説をしてくれないか」


 こんな頼みを受けたのである。

 

 

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Wikipediaより、アメリカ在留中の平岡)

 


 曰く、もうすぐワシントンの誕生日である。


 合衆国民が挙って祝うこの記念日に、我が校でも彼を讃えるスピーチが必要なのだが、今年は是非ともその大任を、


「ミスター平岡、君にこそお願いしたいのだ」


 彼の演説上手は既に学校中の評判だった。


 日本人とは思えぬほどに流暢な英語を操って、平岡が一度壇上に立つや、直後満座が沸騰するのはほとんど約束されたようなものである、と。


 そこを見込んで、校長もこの話を持って来たのだろう。


 ところが彼は平岡の気性を知らなかった。木挽町の邸で産湯をつかった生粋の江戸っ子。後に明宮殿下の御所望すら撥ね退けるつむじ曲がりが、このときも出た。


「お断りいたす」


 即答だった。


「僕は日本人だ。曾てワシントンなる者に、恩も縁因ゆかりも覚えなし。そんな相手をにわかに救世主の如く崇めよなどと、金輪際御免蒙る」


 大問題になった。


 校長は、耳の穴から蒸気を噴かんばかりに激怒した。


(人の折角の好意を、なんだ)


 可愛さ余って憎さ百倍、という側面もあったろう。


 もっともそれで大人しく縮こまるようであったなら、そいつはもう平岡ではない。吐いた唾は呑めん・・・呑まん・・・退学届けを叩きつけ、飄然と同校を去ってしまった。


 その後は職工として、各地の機関車製造所に潜り込んでいる。朝六時から夕方六時まで真っ黒になって働き続け、退勤しても休むことなく、工科大学の夜学に通って知識吸収に努める毎日。


 ほとんど人間離れした奮闘だった。

 

 

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 このあたりのやり口は、どこか「重工業王」鮎川義介を彷彿とさせるものがある。明治人らしいと言うべきか。いずれにせよ、以上の事柄を踏まえてから見た場合、明治十四年に吐いた大言壮語――お雇い外国人を全員クビにし、日本鉄道株式会社の指揮権をわたくし一手に委ねられたし――も、あながち傲慢とは言い切れなくなる。


 なんとなれば斯業に関する知識量と経験量で、平岡熙を凌駕し得る輩なぞ、欧米諸国を探しても滅多に見つかるものではなかったからだ。五年に亘る洋行で、彼はそれだけのモノを積み上げた。

 

 

 

 

 


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