穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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検疫小話 ―最後の長崎奉行の記憶―

 

 前回前々回検疫について触れてきた。


 折角だからもう少しだけ、この話を広げてみたい。


 安政年間のコレラ大流行を目の当たりにして、よほど肝を冷やしたのだろう。わが国に於ける検疫の歴史――海外から来航する船舶への防疫措置に関しては、実のところ明治維新よりなお早く、未だ江戸に幕府の在った文久二年まで遡り得る。

 

 

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 仏教の伝来とともに天然痘を、朝鮮の役では梅毒を、みすみす国内に入れてしまった日本人も、二百五十年の泰平を経てだいぶ理知が磨かれたらしい。この年幕府はポルトガル領事に宛てて、以下の如き内容の公文書を発行している。

 


支那国におゐて、痢病流行せる由之処、一体伝染病之もの乗組候船舶、日本港内へ繋泊致し候儀は、素よりこれ有る間鋪と存候得共、萬民之憂ひ相成候事に付、支那より渡来之船々健固状所持せざる分は、開港場へ繋泊之儀差留候筈、江戸在留之貴国ミニストルへ談判済にて、其許へも通達これ有り候趣、政府より申越候

 


 要約すると、


「どうも支那ではここのところ疫病の大流行が起きてるらしい。わが国の港に纜を繋ぐ船舶に、まさかその罹患者が居るとは思わないが、なにぶん天下万民の押しなべて憂慮するところゆえ、以後支那より渡来する船という船は健固状のない限り、開港場へ繋泊することは認められぬ旨、貴国の公使とも合意に至った。このことそちらへも通達しておく」


 といったあたりか。


 とりわけ目を引くのは「健固状」の三文字だが、これはどうも残念ながら、後の世に於ける検疫証明書ほどしっかりしたものではなかったらしい。


 せいぜいその船の出発港に疫病の流行なしと書かれたものに過ぎなかったようである。


 なんとなれば当時の国情を顧みて、医者が直接外国船に乗り込んで、船員水夫をいちいち健康診断したなどという状況は、実景としてとても成り立ちそうにないからだ。必然、防疫網とは言い条、網の目はひどく粗っぽく、病原体は悠々と隙間を縫って侵入してきた。

 

 

Quarantine guardship Rhin 1830

 (Wikipediaより、検疫中の船)

 


 まあ、それはいい。


 更に文書に続けて曰く、

 


付ては、向後船々入津候はゝ、即時相糺され若し伝染病之もの乗組候はば勿論、健固状所持これ無き船は、早々外港へ出させ、上陸等厳重差留られ候様致したく存候、尤入津之船々へ書面を以、相達せられ候ことにて候はば、港会所より乗組之節、相渡候ても差支これ無く候間、兼て掟書差越置かれ候様存候、此段達および候、謹言
文久戌年八月廿日 

中台信太郎(花押)
 せいろれいろ君

 


 疫病船を追い返す、具体的な手続きについて記されている。


 ところで差出人のこの名前、中台信太郎の五文字だが。長崎史に詳しい方なら、きっと見覚えがあるだろう。そう、「最後の長崎奉行と呼び称された彼である。


 慶応四年一月十四日、鳥羽・伏見の戦いで幕府方が敗れたとの報告が届くや否や、本来の長崎奉行河津伊豆守佑邦は尻に帆をかけて逃げてしまった。


 夜陰に紛れて大坂城を脱け出した徳川慶喜一行といい、どうも末期の幕府には上下ともに「逃げ癖」がある。

 

 

Kawadu Sukekuni

 (Wikipediaより、河津佑邦)

 


 とまれ、河津が去ったあと。彼に代わってこの地に踏ン張り、土佐海援隊佐々木高行薩摩藩士の松方正義らといった、新たなる支配者どもを相手どり、引継ぎ業務の遂行に尽力した一人の幕臣――それがこの中台信太郎だったのである。


 上の公文書を作成している時点では、六年後の自分がまさか、長崎に於ける幕府の敗残処理を一手に引き受け、しかもその「功績」で青史に名を刻むとは、夢にも思わなかったに違いない。


 運命とはまったく玄妙なものだ。

 

 

 

 

 


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