一九一二年二月二十九日、北京にて。――
支那大陸の伝統行事が始まった。
この地に置かれた軍隊のうち、およそ一個旅団相当の兵士がいきなり統制から外れ、暴徒に変身――あるいは本性に立ち返り――、市内の富豪や大商を手当たり次第に襲ったのである。
掠奪劇の開幕だった。
(北京西郊、万寿山の景)
蛮声と共に門扉を破り、邸内に侵入した兵士らは、落花狼藉、女子供を追いかけまわし、亭主を二三度ぶちのめし、鼻の骨ごと反抗の気を折ってから金庫の鍵を開けさせて、もう一度ぶちのめすか殺すかすれば、あとはいよいよお楽しみである。
ありったけの金銀宝飾、財貨の類をかっぱらって次に行く。
兵士が去って、しかしそれで終わりではない。
嵐が吹きすさびでもしたかのような邸内に、今度は近所の貧乏人らがやって来る。
それも壮丁ばかりではなく、十に満たない幼子から七十過ぎの老婆まで、文字通り総ぐるみの態を為して、だ。
彼らは兵士が散らかすばかりで奪わなかった什器や衣服、その他小物の類など、言ってしまえば「おこぼれ」へと殺到し、目につくものは何でも御座れと次々懐へ押し込んでゆく。
まるで地に落ちた菓子に群がる蟻のよう。「良心の麻痺と云はうか、先天的の掠奪性と云ふやうなものがありとでも云はうか、浅ましさ、うとましさの限りである」と、神田正雄は当時を回顧し身をふるわせた。
(Wikipediaより、神田正雄)
東京・大阪朝日新聞が北京に配置しておいた、特派員のひとりである。
明治十二年生まれというから、このとき年齢三十三歳。
働き盛りといっていい。世間に揉まれ、辛酸をなめ、青臭さもだいぶ抜け、体力的にもまだそれなりに無茶が利く。海外勤務にうってつけの頃だった。
この不祥事は神田以下、多くの外国人ジャーナリストの目の当たりにしたところであった。
彼らが一様に不審がった現実は、肝心要の当局が、いつまで経っても騒動の鎮圧に乗り出さないことである。
当時、北京には、袁配下の軍隊二万余が駐箚し、巡警総庁もまた約一万の巡警隊を有して、治安維持に当ってゐたのであるが、僅かその内の一旅団の兵の掠奪をなすまゝに放任して、商賈は焼かれ良民は殺されて、悲惨その極に達したけれども、鎮定に一指をすら染めやうとしなかったのである。(昭和三年『謎の隣邦』72頁)
(新学堂の面々と、最前列右から三番目に神田正雄)
これではいったい何のため、日々米塩を支給して訓練を積ませたのやらわからない。
急場に臨むや脳も身体も硬直し、一歩も動けず突っ立つだけが関の山なら、案山子の方がまだ幾分か使い道と可愛気とを有していよう。
およそ軍人にして怯懦なるほど正視に堪えない、薄みっともないものはない。それは最早、ある種の裏切りですらある。よその国のことながら、神田は義憤に歯をきしらせずにいられなかった。
が、後日になって。
一連の騒動の裏面が判明してくるや、かつて抱いた憤懣は、いっぺんに冷たい恐怖となって彼の背筋を寒からしめた。
…此の兵変は袁世凱が臨時大総統に選挙せられ、その就任式を南京に於て挙行するの約を取消すに術がないのに閉口して、列国使臣の駐箚首都にわざと暴動を起させて、その結果、北京に就任の式場を変更せしめようといふ、陰謀に基づくものであったことが判ったのである。この計画はまんまと当ったわけであるが、支那政治家の大胆さ、無責任さは、国民の利害休戚なぞ全く眼中になく、ただ自分の立場一点張りで行くのであると思ひながら、これにはさすがに胆を潰した。(同上)
そんなばかな話があるかと、日本人なら誰もが叫ぶに違いない。
一九一二年は民国元年。新たな国のひらけゆくハレの日中のハレの日に、いったい何を仕出かしている。
テスト厭さに校舎の爆破を計画するのと変らない駄々。中学生ならいざ知らず、仮にも国家の代表がそんなものを捏ねるなぞ、冗談にしても悪質だ。越えてはいけないラインどころかほとんど人間を逸脱している。
だが、ああ、しかし、なにせ相手は袁世凱だ。
清朝健在なりし日は、叛乱を鎮圧する名目で朝廷からカネを引き出し、しかもその資金を横流しして革命勢力を養うという離れ業さえ披露した、人類史上稀にみる政治的怪物のやることだ。
ならば有り得る。
中華民国の暁を民の紅血で彩るぐらい、この男なら鼻唄まじりにやってのけるに違いない。
尾崎行雄の感情に、今更ながら得心がいく。つまりは彼が蛇蝎の如く強烈に、袁世凱を憎んだ
(紫禁城太和殿の景)
北京掠奪の一件は驚くべき速さで以って大陸全土に伝わった。
防衛すべき戦力が如何に無能だったか知るや、人々は新政権の足下を露骨に見透かすようになる。火薬庫が誘爆する如く、模倣者が引きも切らずに
軍隊を有って居て他人の侵入を自らの力で防ぎ得る者でない限りは、支那に於て財産の安固を期しようなどは、以っての外の願ひであると謂はなくてはならぬ。支那に於ては帝王でない限り、富の集積、栄華の極致を遂げることは絶対に不可能であることが、これで十分に得心が行ったことゝ思ふ。(74頁)
神田正雄の観察は、これ以上なくあざやかに、真理を衝いてのけている。
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