穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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汽車に乗った江戸時代人 ―村垣範正、青木梅蔵―

 

 

野も山も見るめとまらずいとどしく
轟はしる車なりけり

 


 万延元年1860年)、江戸幕府最初の遣米使節として海を渡った新見豊前守正興一行――彼らは同年閏三月六日に、パナマから汽車で東海岸へと抜けている。


 ワシントンにて、日米修好通商条約の批准書を交換するためだった。


 一行の誰であれ、汽車に乗るのは初めてのこと。目につく総てが物珍しく、いちいちまた衝撃的で、そうした心の動きをありのままに表白したのが冒頭の三十一文字であったろう。

 

 

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 詠み手は、副使村垣淡路守範正


 彼の書いた『遣米使節日記』を参照すると、

 


 ……やがて蒸気も盛んになれば、今や走り出でんと、兼て目もくるめくやう聞きしかば、いかがはあらんと、舟とはかはり案じけるうち、凄まじき車の音して走り出たり。直に人家をはなれて次第に早くなれば、車の轟音雷の鳴はためく如く、左右を見れば三四尺の間は、草木も縞のやうに見えて眼にとまらず、七八間先を見れば、さのみ目のまはることもなく馬の走るに乗るが如し。更に咄も聞えず、殺風景のもの也。

 


 西洋文明の威力に圧倒されつつ、なにくそ、呑まれっぱなしでなるものか、前さえ見てれば馬に乗ってるのと――少なくとも体感的には――大して変わらんじゃあないか、と精一杯気を張る姿が浮かんできて好もしい。

 第一この殺風景さはどうだ、緑豊かな我が神州の山野とは到底較ぶべくもない――などと、ともすれば現代の日本人でも口にしそうな台詞であろう。


「立つ瀬」を確保しようとする人々の口吻は、おのずから似通ってくるらしい。

 

 

JapaneseEmbassy1860

 (Wikipediaより、左から村垣範正、新見正興、小栗忠順

 


 それから四年後の元治元年1864年)、幕府は都合三度目になる遣外使節を派遣。


 率いるは幕臣池田筑後守長発昌平黌にて抜群の成績を修め、若くして京都町奉行外国奉行を歴任した出色の男。


 そんな筑後守が責任者を務めるこの一行に青木梅蔵なる人物が混ざっていて、やはり汽車のことについて面白い記述を残しているのだ。

 


 ヨーロッパ世界を目指したこの日本人集団が汽車の初乗りをやったのは、スエズからアレクサンドリアの間にかけて。このあたりの旅程について梅蔵は、次の如くその日記帳に書き付けている。

 


 ……蒸気車のはしる道はすべて鉄の棒を一面に敷きたるものにて、其費幾千萬といふを知らず、蒸気車のはしる事蒸気船よりも一倍の如く、実に飛鳥の如し。且此辺は往来にテレガラフといふもの頭上にありて、千萬里の遠きにも一瞬の間に達す。これ皆道の傍に於て丸太を一町ごとに立て是より続て千里にかよふ。其仕掛奇々妙々なり。所謂エレキテルの類ならんか。

 


 電信テレガラフの原理をエレキテルと見抜くあたり、なかなかの洞察眼といっていい。

 

 

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 青木梅蔵の日記、更に続く。

 


 此の蒸気車に乗るは余程巧拙あるよし。おのれは拙なるにや随分難儀を致したり。時僅かに四時にして四十七八里のところを行たれば推して知るべし。両度休みたるも諸人の大小便をなすためなり。己等この故を知らざれば、両便にはほとほと困りたり。それにつき可笑しき事あり。右車中にて大便を山盛になせし人あり。畢竟右の故を知らざればなり。

 


 人間何から逃れられない宿命さだめと言っても、生理現象以上に不可避なモノはないであろう。読んで字の如く、生きている限りそれはどうしてもついてまわる。


 下世話な話で恐縮だが、近頃ある事情から膀胱が破裂する寸前まで小用を我慢するを余儀なくされた私としては、あまり滑稽がってもいられぬ下りだ。
 下っ腹がずきずき痛み、五体を巡る血液を総ざらい冷水に入れ替えられでもしたかのようなあの感覚は、出来れば二度と味わいたくない。


「近代国家」を学ぶため、明治四年に日本を離れた岩倉具視とて例外ではない。豪胆で知られたこの元勲も車内で腹痛に襲われて、万策尽きた挙句の果てにシルクハットの中に致した・・・という逸話がある。


 生理的欲求の前では、英雄豪傑もあわれなものだ。

 

 

万延遣米使節におけるアメリカ体験の諸相

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