前回の記事に引き続き、汽車と日本人の関わりについて、もう少しばかり触れてみたい。
鉄道、ガス灯、電信柱は文明開化を象徴する、言ってしまえば「三種の神器」だ。中学、否、高校の歴史教科書に於いてすらも、一読すればこれら「文明の利器」の数々が維新と同時に雪崩をうって押し寄せてきたような印象を受けるが、事実はそう単純でない。
大変な抵抗を受けなければならなかった。
今からするとほとんど信じられないような話だが、たかだか鉄道一本通すだけの事業にも、その発案者はいちいち暗殺の危険を覚悟しなければならなかった時代である。
とはいえそれも無理はない。
新政府の大官といえど、実際に海外へ赴いて「文明」の威力を目の当たりにしたのはごく一握り。ほとんどの者は蒸気機関車など見たこともないし、それが齎す利益のほどを、いまいち実感として捉えきれない。どころか公卿諸侯に至っては、未だに「攘夷」の実現を大真面目に考えていて、外国人を「洋夷」と捉え、彼らの道具の取り入れさえも「神州を汚し祖霊を冒涜する行為」と盲目的に信じる層さえ残存している始末。
――そんな無用の大工事を起こして、何になるのだ。
鉄道敷設の主唱者たる伊藤博文と大隈重信の周囲には、たちどころに批判の声が雨注した。
無知からでなく、生活を脅かされる恐怖から反対の声を上げた勢力もある。
地主や旧街道筋の旅籠屋、車曳などがそうだった。
交通の主役が鉄道に移行するような事態になれば、それこそこっちはめしの食い上げ、一家揃って路頭に迷う破目になると半ば恐慌状態に陥ったこの連中は、試験線路に侵入し、電線を切るやら電柱を倒すやら、直接的な妨害工作に打って出た。
このあたり、後年のラジオ出現期に於ける新聞界隈の動揺ぶりを彷彿として味わい深い。
或いはもっと最近で、インターネットの発達による旧マスメディアの凋落・及び迷走に範を求めてもいいだろう。
時代の過渡期に付き纏う闘争――その典型といっていい。
明治初頭のそれもまた、決して容易な代物では有り得なかった。なにせ、鉄道建設の廟議が決したのは明治二年十月だが、それから僅か二ヶ月後の十二月には早くも弾正台から反対の建白書が提出されているのだから。
弾正台に関しては、今でいう検察の如きものと思ってくれれば大雑把ながら事足りる。
その司法機関が今度の鉄道事業に対して、
――姦民黠吏を欺き、黠吏朝廷を欺き奉るには有之間敷候哉。
などと、極めて過激な文体で疑義を挟んで来たのである。
維新志士の最大巨頭、国民の期待を一身に集める西郷隆盛その人さえも、
「開国の道は早く立たきことなれども、外国の盛大を徒らに羨み、国力を省みず、漫りに事を急に起こさば、終に本体を疲らし立行くべからざるに至らんか。此際、蒸気仕掛鉄道興作の儀、一切廃止し、根本を固くし、兵勢を充実するの道を勤むべし」
などと言ってあからさまに反対派に廻る始末。
「鉄道」という角度からこの時期の伊藤・大隈を眺めると、ほとんど孤立無援の観すらあって、悲惨な雰囲気が立ち込めている。
特に大隈に至っては、自分の門人にさえ脅迫された。当時彼の屋敷は「築地梁山泊」と通称されて、その名の通り諸方から集まった食客たちが日々賑々しく議論を交わしていたのだが、この食客たちが
――大隈は神州の土地を質に外国から金を借り受け、国を売らんとするものだ。
前述の弾正台の建白書を由来としたような風聞を聞きつけるや、どういうわけかこれを真に受け、
――それが事実なら、もう大隈サンを生かしておくわけにはいかない。
と、短刀を手に走り出しかねない気勢を示したのである。
もっともこの程度の脅迫にビクつくほど、大隈重信は可愛らしい性格ではない。
威脅されればされるほど、いよいよ闘志が湧いてきて、敵撃滅の意志が百倍される。そういう漢だ、この早稲田大学の創立者は――。
屡々「粗大漢」の謗りを受ける大隈だが、こと胆の座りっぷりにかけてなら、何人も彼を否定することは出来ないだろう。
『大隈伯昔日譚』は、当時をこう述懐している。
余の主張の衆難群疑の中に陥りつつあるは誠に諸氏の忠告する処の如し。保守主義の反動は日一日とその気焔を増進しつつあるも、亦諸氏の忠告する処の如し。余等もこれを知らざるにはあらざれども、却って斯る衆難群疑を排し、斯る反動の気焔を挫かんには、かかる大事業を企成して、天下の耳目を新たにするに如くはなし。況んや、今日、速に道路の険悪不便を修理して運輸交通の便を開かざれば、民人の疲弊は将に測れざるものあるに於いてをや。(中略)毀誉褒貶は世評に委すべし。成敗利鈍は天運のままのみ。敢て顧みる所にあらず。この大事業の成るか敗るるか、是を以て余等が既に着手し実行しつつある凡ての進歩的事業、進歩的改革の成敗を卜せんのみ。
まことに威勢のいい、気宇壮大な言辞であろう。
新橋―横浜間の全線が開通して、目出度く開通式と相成ったのは明治五年九月十二日のこと。
大隈の猛烈さが切り拓いた道だった。
(小林清親 「新橋ステンション」)
これに先駆けること約一年、明治四年九月二十一日、汽車に試乗した大久保利通はその日の日記に、
三時より蒸気車にて川崎まで三十分の間に着す。始て蒸気車に乗り候処、実に百聞は一見に如ず、愉快に堪へず、此便を起こさずば必ず国を起すこと能はざるべし。川崎より大山と同道人力車にて帰る。
と、沈毅な彼にしては珍しく、子供のようなはしゃぎっぷりで感動のほどを表している。
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