尾崎行雄はとにかく日本の悪口を言う。手当たり次第に罵倒する。そのくせ英米を筆頭とする西洋文明に対しては、彼の毒舌はまったくなりをひそめてしまい、却って美点ばかりを取り上げるから
――外尊内卑の軽薄漢。
――盲目的な西洋崇拝。
等々と、当時から雨の如く批判が殺到していたわけだ。
にも拘らず当人ときたら、蛙の面に小便とばかりにシャアシャアとして一向勢いを減殺されず、日本批判を繰り返すからますます嫌われることになる。
実際尾崎行雄にとって、外野からの批判など、蠅の羽音以下であったに違いない。
本人よりも、友人がむしろこの流れを心配した。
そこで警告の書を送った人物と、尾崎とのやりとりが興味深い。
私の尊敬する朋友中に書面を寄せて「なぜ日本の短所欠点ばかり挙げて、英米の悪口をいはないのか」と問はれた人がある。私はこれに答へて「自国は愛するが、他国をばあまり愛しないからだ」と答へた。
自分の子供に対しては、小言を云ふが、他人の子供には、小言を云はないのみならず、事実以上に誉めることすらあるのが、世人の常習だ。愛すればこそ小言もいへ、愛しもしないものに、小言をいって怒らせる必要はない。(昭和四年『咢堂漫談』242頁)
自分の罵倒は愛の鞭というわけである。
ところが何にでも例外というのは付き物で、斯くのたまった尾崎行雄が、思い切り悪口をふるって憚らなかった
隣邦、支那がそれである。
大和の桂、
このような歌を多数作って、袁世凱への憎悪をぶちまけたことは以前触れた。
これ以外にも尾崎行雄は、支那人一般の気風について幾度となく言及しており、代表的な下りを抜粋すれば、
世界広しと雖も、支那ほど盛んに忠孝を教へる国はなからう。忠孝はたしかに支那の国体にちがひない。国体といっても、これを行ふ事ではなく、ただこれを説き、これを教へるにとどまるのだ。
然し身に忠孝を行ふものは、支那ほど少ない所はない。(中略)欧米諸国にも忠孝類似の言語はあるが、支那人の如くヤカましくこれををしへはしない。ただ広く慈愛ををしへるだけで、別に忠孝をばをしへないが、忠臣君子は、支那よりずっと多いやうだ。(同上、149~150頁)
おおよそこのような具合になる。
これをも「愛の鞭」と看做すより、恩師である福沢諭吉の影響と見るのがむしろ相応しいであろう。
知っての通り福沢は、はじめのうち大陸人を積極的に支援した。
大陸に欧米の侵略を撥ね返す強力な国家を現出さすべく、留学生の受け入れをはじめとしたあらゆる協力を惜しまなかった。
ところが彼らと現に交わり、その実態が理解されて来るにつれ、期待はどんどん失望へと変化してゆき、大幅な方針転換を余儀なくされて、ついに「東洋を去って西洋に入れ」という趣旨の『脱亜論』を草するに至る。
その影響を、弟子である尾崎が受けなかったはずがない。
思えば下村海南も、蒋介石を評して
「日本に来てあれほど親日を口にし、支那に帰ってあれほど排日を口にする男も珍しい」
と苦笑していた。
彼ら賢人の言葉は、大いに耳を傾ける価値がある。
過去からの響きに、これからも耳を澄ましてゆきたい。
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