その新聞は、立て続けに名を変えた。
創刊当時――明治十九年九月には『商業電報』であったのが、およそ一年半後には『東京電報』と改めて、更にそこから一年未満、ものの十ヶ月で再度改名、四文字から二文字へ、『日本』として新生している。
以後は漸く落ち着きを得たものらしい。大正三年十二月の終刊の日に至るまで、この
――そういう『日本』の報道に。
ちょっとした愚痴、泣き言の類を見出した。重野安繹の挙動をめぐる一幕だ。「抹殺博士」と、渾名で呼んでしまった方が理解は早いやも知れぬ。日本史学に西洋的な実証主義を持ち込んで、口碑や逸話等々の、事の真偽を糾した結果、数多の英雄・豪傑の虚像を消した彼である。
「児島高徳、山本勘助、桜山茲俊、諏訪吉直を抹殺して尚ほ
明治二十五年十月十八日の記事だった。
重野に対する記者の批判は情義一偏、大事にしていた胸の奥の幻想を傷つけられた痛みに発する恨み言の類であって、およそ取るに足らないが、末尾の方には割と光る部位もある。
すなわち「悪人は抹殺せずして善人を抹殺す」。性悪説を信奉する
(viprpg『トドワレノトウ』より)
そうだ、そうとも、その通り、善人など架空の存在、何処かの誰かが「居て欲しい」と夢に描いた、つまり妄想の産物であり、それゆえ彼らの居場所とは、
虚飾をひっぺがしてみれば、人類史とは慾と悪意の大渦巻きだとすぐわかる。トマス・ホッブズが謳った通り、人は人にとって狼であり、油断のならない存在である。にも拘らず安易に
「人間社会は智愚相半して組織するに非ずして、或は愚の多数より成ると云ふべき程のものにして、其愚の弊害挙て云ふべからざる中に就ても、最も憂ふべきは軽信の一事なり」――福澤諭吉も斯く述べた、猜疑は転ばぬ先の杖、備えを怠るべきでない、と。
渡る世間は鬼ばかり、人を見たら泥棒と思え、男子家を出ずれば七人の敵あり――。
自分の血潮で窒息したくないのなら、他人とはまず、疑ってかかった方が賢明だ。
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