カーライルは神経過敏な男であった。
とりわけ「音」への感覚は一種特別なものがあり、その繊細さは時として、殻を剥かれたエビにすら擬えられたほどである。時計のチクタク音にキレ、遠くの犬の鳴き声に集中力を掻き乱されて、逆上のあまり二重壁の部屋をつくって引き籠ってみたものの、やはり満足には程遠い。
「いっそ、アフリカの砂漠にでも移りたい。それが叶わないのなら、せめて大海に船を浮かべてそこで思索に耽りたい」
日ごと癇癪を起しては夫人に向かってこんなことを言い散らし、彼女を大いにてこずらせたということだ。
(Wikipediaより、トマス・カーライル)
ダーウィンもまた、被害に遭った一人であった。
スペンサー邸でこの両名が対面した際、何を思ったかカーライルは滔々三時間に亘り、喧騒の有害と沈黙の利益について思うところをまくし立て、ダーウィンをしてほとんど座にいたたまれぬほど困憊させた。
ダーウィンは後にこの体験を「喧騒を攻撃するための喧騒」と表現し、お蔭で自分にも静寂の利益が覚れたと皮肉たっぷりに締めくくったそうである。
次の逸話は、以上の知識を前提として脳に容れておかなくば、真の妙味を感得し難い。
米国の文豪エマーソンが、欧州漫遊の折、英国カーライルの寓居を訪ねた。両文豪の初対面だから、どんなすばらしい話が交わされるかと思ったら、カーライルは先づ賓客に煙草をすゝめ、二人とも黙したるまゝ深夜に及んだ。やがて別れる時、
「こんな愉快な晩はなかった」
と異口同音、二人は堅い握手を交わした。(昭和十四年発行『交渉応対座談術』336頁)
此度は私も彼らに倣おう。贅言を慎み、本稿はここで切り上げる。
これは決してネタ切れにより、にっちもさっちも行かなくなった挙句の果ての、苦し紛れの言い訳ではない。ないといったらないゆえに、その点どうか悪しからず。
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