穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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海の屯田 ―明治人たち―

 

 ルドルフ・フォン・グナイストプロイセンの法学者である。


 腕利きの、といっていい。その名声が一種引力として作用して、相当数の日本人が彼のもとを訪れた。教えを請い、啓蒙を得、草創間もない祖国日本の法整備を志し、意気揚々と引き揚げてゆく極東からの生徒たち。


 彼らに対し、逆にグナイストの側から「教えてくれ」と声を上げたことがある。明治十三年、行政裁判法につき質問するためやってきた、村田たもつに対してだ。

 

 

Tamotsu Murata 1919

Wikipediaより、村田保)

 


 内容は、専ら水産に関することどもにつき。


「日本の海に棲まう魚類は六百種もの夥しさに及ぶと聞いた。ドイツの六十余種に比し、実に十倍相当だ。従って漁獲量も莫大なりと想像するが、目下の統計、如何ほどか」
「漁船・漁具はどのようなものを使っているか」
ドイツには水産会が組織され、総裁として皇太子を奉戴し、政府はこれに数千マルクの補助を与えて惜しまない。また水族館あり、水産学校あり、一般人の念頭に『水産』を注入すべく余念がないが、日本はどうだ。協会はあるか、水族館は、学校は」


「……」


 村田は蒼褪め、瞳が動き、いっそそのまま地上から消滅したい気になった。


 何一つとして、まともな答えを返せなかったからである。


 国家の機密に関することを迂闊に洩らせぬとかなんとか、そういう鹿爪らしい理由ではない。ごく単純にわからないのだ。彼はまったく漁業に関して、門外漢そのものだった。


(海国民でありながら――)


 グナイストも意外な思いがしただろう。

 

 

Heinrich Rudolf Hermann Friedrich von Gneist

Wikipediaより、グナイスト)

 


 実に気まずい展開である。


 針の筵で石を抱かされているような、この堪え難い雰囲気が、しかし村田の人生に重大な転機を齎した。後日、彼は書を起こす。宛先は、参議のひとり・山田顕義この松下村塾出身者に向け彼はまず、一連の体験を包み隠さず報告し、


「狭小な海面に接するドイツに於ては、一の法律家すら、其国の水産に熱心なること、れ斯の如し。わが環境の日本に於ては如何。彼等は未だ水産の何物たるかをだに知らざる也」


 水産のゆるがせにすべからざること危急を説いて、全国的な中央機関の立ち上げを末尾に至って熱望している。


 村田保、このとき年齢三十九歳。


 体細胞はともかくとして感受性はなお若々しい。「法律の村田」から「水産の村田」に世の印象を塗り替える、これが最初の一歩であった。

 

 

(北海道、釧路川岸の魚市)

 


 時は流れて、明治二十二年。


 このとし、米国密漁捕鯨船の活動が特に激しい。


 少なくとも九隻がオホーツクから日本海一帯を荒らしまわって、七十六頭のクジラを捕殺。その成果により、三十三万七千七百ドルものカネを得たという。


 そういう意味の通信を、アメリカの知己から受け取るや、村田はほとんど卒倒しかけた。


 目も眩む怒りというべきか。


 その憤懣が、やがて『水産に関する前途の方針』とか『日本近海の外国漁船』とかいった論文として結晶している。感情をいたずらに空費はしない。こういう作用を起こせる当たり、村田は流石に当代の文明人だった。


 で、この「文明人」の、千島に対する見解のほどが面白い。

 


 千島列島間のラッコ・オットセイ猟船の跋扈跳梁する、已に我国権を毀損するや甚だしきのみならず、濫獲の余、漸く其種族を蕩盡するの恐あり。将来鯨若くは鱈の如きも、亦此覆轍を踏むに至らん。現に幌筵島とカムサッカ半島間の水道の如きは、外国漁船の鱈釣に従事するもの多きことは、磐城艦又は勅命を奉じて該島に赴かれたる片岡侍従の目撃せる所なりと云ふ。

 

 

(『Ghost of Tsushima』より)

 


 海洋資源を他国に強奪されること、枯渇の危機が仄見えるほど徹底的に奪われること、大日本帝国も日本国もあまり変わりがないらしい。


 最高に惨めな気分にさせてくれる論述である。暗澹たる現況をひとしきり確認した後は、対策について目を向けよう。これがまたぞろ、個性的で痛快なのだ。


 屯田兵式でやれと提案しているのである。

 


 千島の如きは、特殊の制を設けられんことを望む。抑々該列島は北門の鎖鑰として、世人の囂々論ずるに拘らず、外国密漁船の出没して止まざるも、未だ之を如何ともするなし。(中略)故に今日に在ては、先づ従来実地漁業に従事せる所の壮丁を内地に募り、之を漁団兵となし千島に移し、海軍武官をして統率せしめ、其海に適当なる漁船、漁具を作りて之を与へ、時々操練を行ふの外は平素専ら漁業に従事せしむること、恰も陸上屯田兵が農事に於ける如くならしめ、年を経、役満つるに及んでは其漁船漁具を下附して、私財たらしめ、以て其の地に永住せしむこと、(中略)斯くの如くするもの数十回せば、終には千島各島人口漸く殷庶に、漁事次第に旺盛に赴き、彼の密漁船の如き、亦是を容るに所なきに至らん。

 


 漁業と国防を一体にして考えたあたり、藤川三渓と同腹といっていいだろう。

 

 

紗那郡に於ける捕鯨の様子)

 


 嗚呼、明治人というものは、皆おしなべてこう・・なのだろうか? 危機意識の鋭さが、現代人の比ではない。「もう終わりだよこの国」ではなく、「この国を終わらせてなるものか」と気張れる漢が大勢いたのだ。そういう人材を、なんとか再び創れぬものか。

 


 教育の弊と政治の害とが新しい人から忠君も愛国も孝も節操も尽く抜き取ってしまって、そして新しい何物をも与へないから、唯自我、小さな自我がボンヤリと残った、自分さへ善ければ可いでは自分さへ善く行かないに極ってゐるが、さういふ青年は大分ある。

 


 茅原華山の痛哭は、こんにちますます深刻だ。

 

 

 

 

 


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