「上方で
兵力が要る、我はと思う者やある、居れば疾く疾く名乗り出よ――。
慶応三年、薩摩にて、こんな「お達し」のあった際。加治屋町の貧乏藩士、山本家からは四兄弟中、二人までが飛び出した。
長男盛英は御小姓役を務めていたため国許に残る義務があり、末弟誠実は威勢はよくとも未だ十歳の小僧に過ぎない。
そこをいくと次男吉蔵は男盛りで、また色々と身軽な立場でもあった。
「
そういうことになった。
この宣言を、内心密かに垂涎の想いで聴いていたのは三男権兵衛。
吉蔵に対する艶羨は日に日にどころか一分刻みで倍加して、皮膚を裏から掻き破る。青春の血が騒ぐのだ、じっとしていてなるものか。焦慮は鼓動をむやみに高め、あたまの芯をぼやけさせ、あらぬ飛躍に彼を導く。ふと気がつくと権兵衛は役所のカマチを越えていた。目の前には志願兵をとりさばく役儀を負ったやつがいる。
「うなァ、
役人が訊いた。
権兵衛は答えた、
「十八でごわす」
嘘である。本当は十六歳である。
が、当時の藩の方針として、十八歳未満は従軍まかりならぬとなっている。
(冗談ではない)
権兵衛にとって、これほど迷惑な規定はなかった。
風雲はまさに千載一遇、先祖の怨みを、関ヶ原の屈辱を、葵の御紋に叩き返す絶好機。
三百年間、薩摩藩士全員の待ちに待ったる檜舞台はすぐそこだ。脇目もふらさず上るべし、さもなくば、男と生まれた甲斐がない。睾丸など持たぬ方がマシだった。わかりやすく根本義の危機である。とすれば大事の前の小事であろう。権兵衛は堂々と詐称した。
(ままよ、なこよかひっとべじゃ)
幸い権兵衛の筋骨は猛々しく発達している。
その肉質が、彼を扶けた。役人は特に疑念を持たず、煩雑な確認を行わず、さっさと手続きを済ませてくれた。
(どうだ)
跳んで正解だったろう、と。
権兵衛は有頂天で京に上った。
(明治三年撮影、左端に山本権兵衛)
やがて年の瀬、十二月二十八日の午後である。
屯所にて、冷たい空気を肺に入れ、
「よう、弟――」
なんと兄の吉蔵である。一斗樽を引っ提げている。
「近いぜ、いよいよ、出陣が」
訣別の宴を張るためだった。
鏡をぶち抜き、喉を鳴らして酒を呑む。
杯を干してはまた満たす、合間合間に吉蔵は、
「戦いに臨んでは、お互いに命を的に働かねばならぬが、たとい討死するにしても、鉄砲傷はありがたくない。刀傷にしようじゃないか」
こんなことを喋ったという。
応、と権兵衛は頷いた。
鳥羽・伏見の戦いに先駆けること、実に六日前である。
この日を境に、以降一年。奥羽越列藩同盟が崩壊し、みちのくの砲煙、熄むまでの間、兄弟は遂にただの一度も顔を合わせる機会がなかった。
屯所が別なら、部署も別。つまりはそういうことである。しかし直接ならずとも、手紙を介した間接交流ならあった。鳥羽・伏見を生き延びて、一息つくも束の間のこと、次なる戦場、越後口を目指して進む権兵衛に、兄は心づくしの
「兄弟戦に死せざるは賀すべきなり、然れども一の傷をも受けざるは人皆吾等が勇戦せざりしを思ふならん、依て今後大に進撃して兄弟互に大功を立しと言はれん事を希望す」
武士の鑑としかいいようがない。
思いやりたっぷりな励ましに、権兵衛は果然奮い立つ。火の玉を呑んだようになり、目付きがいよいよ座りはじめた。
自分の書いた内容を自分で実践するように。吉蔵、ほどなく白河口の戦いにて負傷して、横浜へ後送、入院の運びとなっている。
が、
「こんなところでいつまでも、暢気に寝そべっていられるか」
傷口がまだ充分癒着もせぬうちに、半ば脱走の勢いで病院から飛び出すと、戦火を恋うて東北へ、会津目指して疾駆した。
これが薩人なのだろう。
いっぽう弟、権兵衛は権兵衛でものすごい。この若者は戊辰戦争の期間中、とうとう手傷らしい手傷も負わず、万全の体調で凱旋している。
ここを先途と覚悟を決めた瞬間が、幾度となくあったのにも拘らず、だ。銃弾という銃弾が、ふしぎと彼を避けたのである。愛されたとしかいいようがない、戦争に、あるいは戦争を統べるなにものかに。――
(少尉時代の山本権兵衛)
そのことを、当時に於いて見抜いたらしき人物がいる。
春畝公伊藤博文である。
話が一気に
すると席上、伊藤がやにわに権兵衛に対し身を寄せて、
「個人として我輩が君に敬服していることが三つある。これは木戸にも大久保にもなかった長所であると思う。第一は人を見るの明だ、第二は部下の教育、訓練から一切の準備に至るまでよく整頓していることだ、第三は、これはまだ口外する時期でない」
声をひそめ、ほとんど耳語に近い調子で言った。
遺憾ながら「時期」とやらが来るより先に馬鹿野郎の凶弾が伊藤の胸を襲ったがため、第三の中身が何であったか、答えは永遠に失われている。
しかし、もし。勝手な想像が許されるなら、この三つ目の要素とは、
「運がいい」
ということではなかったか。
コルタナが並み居るスパルタンから、ジョンを、マスターチーフを選んだ理由と同一である。彼女は言った、いみじくも、
“私が選んだのよ、知らなかったでしょ。どのスパルタンと組みたいかってね”
“もちろん、リサーチはしたわ。あなたが理想の戦士に成長して行く過程を”
“あなた達は皆、並外れた強さと勇気を持ってたわ。リーダーの素質もね”
“でもあなたにしか無いものがあった”
“それを見抜いたのは私だけ”
“何だと思う?”
“運よ”
“違った?”
と。
英雄とは所詮、そういうものだ。能力面の突出だけでは不十分。あるいは運命、あるいは天とも形容される、計数外のなにか力に後押しされている者を指す。
伊藤には、それが見えていたのであろう。使い古された言い回しだが、英雄は英雄を知るゆえに。
(山本権兵衛、筆跡)
権兵衛もまた、伊藤を厚く敬った。第三者との会話中、彼の名前を出す際は、
「伊藤
と、敬称付きで呼ぶことを絶対に怠らなかったし――そういう場合、山縣だろうと松方だろうと、桂だろうと西園寺だろうとドシドシ呼び捨てにして憚らなんだこの男が、だ――、遭難後に至っては、
「あんなに物分かりのよい人はなかった」
遠い目をして、しみじみと。事あるごとに口にしていたそうである。
「わしは二度内閣をつくって二度潰れたが、いつも突発事件で予め備えることができなかった。政策に行き詰って倒れたということは一度もない。突発的のことで世界の偉人は何人もやられたのだ」
これは政界引退後、知人に漏らしたところだが。深読みすればその奥に、あんまりにも唐突だった伊藤の最期を感じられないこともない。
ここまでお読みいただき、誠にありがとうございます。
この記事がお気に召しましたなら、どうか応援クリックを。
↓ ↓ ↓