穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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野島公園漫歩録


 落ち葉舞い散る季節になった。

 

 

 


 せっかくの紅葉シーズンに書籍と液晶、その二個ばかりに溺れているのも味気ない。


 ひどい機会損失を犯してでもいるような、一種異様な罪悪感に襲われて。──気付けば野島公園に居た。

 

 

 


 横浜市の最南部、金沢八景の一つたる『野島夕照』で名高きところ。


 ここは海岸にも接し、

 

 

 


 ささやかながら登山気分も味わえるという、一挙両得なスポットだ。

 

 

 


 伊藤博文が別荘を置いた点からも、景勝地として折り紙付きといっていい。

 

 

 


 もっとも今回訪ねた際は伊藤博文別邸は茅葺屋根の修繕工事中であり、内部見学は叶わなかった。常ならば無料公開の施設なのだが。残念である、とてもとても残念である。


 この遺恨、いずれ必ず晴らさねば。

 

 

 


 海苔ひび──海苔を養殖するために、海中に差す棒のこと──の先、向こう岸に聳える施設は、間違いない、あれこそまさに八景島シーパラダイス


 何度か遊んだ経験ためしはあるが、この角度から観察するのは初めてである。

 

 

 


 水はそこそこ澄んでいる。

 

 

 


 松が延々立ち並ぶ。


 やはり日本の海辺には、この植物あってこそ。


 かの高名な林学士、本多静六その人が熱弁していたものだった。

 


「海辺は風潮のため、すべての作物が害されるが、海辺一帯に黒松の林を作れば、風を弱め潮を濾して、その害を防ぐことが出来るし、また日本は殊に海嘯が多く、統計上二三十年目には必ずやって来て所謂家から鼠迄も持って行くやうな惨害を逞うするが、黒松のある場所だけは、常にその損害の程度が軽微で済む、…(中略)…日本では古くから経験上海辺の黒松を保護し厳重に禁伐してゐたが、維新後愚かにもこれを金銭に代へるものが多かった

 

 

 軽佻浮薄なこの動きムーブさえ無かったら、明治二十九年の三陸大海嘯なぞも、遥かに軽微な被害のみにてきっと乗り切れたであろう──と、本多の議論はそのように、順次展開されてゆく。

 

 

Honda Seiroku

Wikipediaより、本多静六

 

 

 なんとなればあの当時、「唐桑湾などは百数十戸の家がまるで跡形も無くなり、残ってゐるのは井戸と便所の穴だけといふ有様であったが、同じ場所でも黒松林のあった処だけは猛烈な潮の差引の度を頗る緩めたため家なども多少位置を代へたぐらゐで人畜の被害も比較的少なかったゆえにこそ。


 まあ、それはいい。

 

 

 


 えっちらおっちら、野島山の頂へ、我が肉体を押し上げる。


 標高わずか57mに過ぎぬとしても、山は山。登ってつまらぬことはない。

 

 

 


 展望台が見えてきた。

 

 

 


 登頂。


 ゆるりと景色を堪能す。

 

 



 たまにはこうして自然の緑をたっぷり含んだ遠景でも打ち眺め、眼の養生に努めねば。


 天気晴朗限りなし、ちぎれ雲ひとつ漂わず、これだけ大気が澄んでると、富士の英姿も目に映る。

 

 

 


 中央あたり、お分かりだろうか。雪化粧をしていなければうっかり空に溶けてしまいそうである。

 

 

 


「下山」して、園内を更にしばし彷徨うろつく。

 

 

 


 稲荷神社発見みつかった。


 日本人は本当に狐好きな民族だ。何処へ行こうとこの神様と顔を合わせる羽目になる。


「神前に額けば何故か狐と油揚げばかりが頭に浮ぶ。稲荷様は崇高な勿体ない神様ではなくて親しみ易い無理を聴いて呉れさうな神様である。祈願する方でも金儲といふ俗事を祈る」。これは湯川玄洋の、伏見稲荷に於ける言。

 

 

 


 敢えて付言するならば屡々女体化されるのも一特徴であるだろう。化け狐をそうとは知らず嫁に娶った民話は多い。そのあたりを踏まえると安座している石像の一つ一つが何やら妙に艶っぽく、待て、いったい何を考えてるんだ、このおれは。

 

 

 


 神聖な神社の境内に身を晒しておいてなお、煩悩の高まりを抑止できない。我が身ながら度し難い、つくづく度し難いことだ。

 

 

 

 

 

 

 


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