大日本帝国陸軍中将、多門二郎の著書『予ガ参加シタル日露戦役』を読んでいる。
ほぼカタカナと漢字のみで構成された文章で、慣れ親しんだ平仮名がないため読解は思うように捗らず、ただならぬ苦労を要するが、それを忍んででも読む価値のある一冊だ。
私が多門二郎に興味を抱いたのは、この人の持論が「軍人こそ平和論者の第一人者なるべし」だと耳に挟んだことによる。なんだその、『幼女戦記』の主人公、ターニャ・デグレチャフが言いそうなことは――と反射的に思ったのだ。
そこで神保町を漁ってみると、果然軍事関係の書籍を専門的に取り扱っている某書店の本棚に、この『予ガ参加シタル日露戦役』を発見した次第である。
お値段、実に1500円。
ちょっと悩んだが、結局は購入に踏み切った。
出征時の多門二郎の立ち位置は歩兵第四連隊付中尉。朝鮮半島に上陸し、在朝鮮のロシア軍を駆逐しながら北上する第一軍に属していた。
この軍集団が朝鮮半島の泥土を進軍するにあたってどれほどの辛酸を舐なめたかは、以前この記事を書く際に引用した、伊藤正徳著『新聞五十年史』のおかげで既に私は一通りの知識を備えていた。
該当箇所を抜粋すると、
朝鮮の道路の悪しき事は、流石の専門家にも調べがつかなかった、其の悪しきといふのは山坂の多き謂にあらず、実に泥の海であって、馬が脚を踏込めば容易に脱けぬ、車輌は軸を没して前にも後にも動かすべからず、故に凸凹ある畑地と云はず、起伏する山間と云はず、道を開いて一歩一歩兵を進めざるべからず、運動の敏速な歩兵のみ進んでも糧食継がざれば戦は出来ぬ、輜重は達しても重要なる砲車達せざれば堡塁を攻むるの戦争は出来ぬ、況して今回は重砲を有するをや。
其道の悪しきと云ふはかうである。寒中に地下三尺も凍りし道路、初春に至りて表面より融け始め、愈三尺の地下まで融解する時は、表面は少し固まっている、されど地下が融動し居れば、宛も水の上に泥舟を浮けた姿である。其舟底を踏貫けば下は泥水にて粘着力を有していて大変である。若し一度雨降れば表面も融解して全く通行は出来ぬ、此の困難なる運搬は、鎮南上陸後直ちに嘗めた苦き経験で、同地より平壌まで十三里の間において、馬斃れ車砕けたこと幾度か、更に平壌より義州まで、五十八里、同様の艱苦を嘗めねばならなかった。
此困苦に打勝った者は輸卒である。其処で戦闘以外鴨緑江の戦に於て先づ功を録すべきものは輸卒で、輸卒と同等以上の功績あるものは工兵である。(『新聞五十年史』184頁)
という、明治三十七年五月十四日付『大阪朝日新聞』紙上に掲載された鳥居素川の記事である。
伊藤正徳はこの記事を、「記者の観察が精細になり、鋭敏になって、皇軍の労苦を国民の胸に深く刻みつけることに大きな貢献をなした」、すなわち従軍記者の功績の例として挙げている。
多門二郎の『予ガ参加シタル日露戦役』で描写された朝鮮事情も、鳥居素川のこの記事からそう隔たったものではない。より詳細に、裏書きするものであろう。
朝鮮に上陸したのは三月二十四日である、而して今日即ち四月二十日迄二十八日間行軍した、其の間滞在も頗る多く其の行程は僅かなものである、丁度平均一日二里半ばかり、以て其の行軍の遅々たることを知るに足る、これで、朝鮮の如き土地で大軍を動かすには如何程困難であるかが分る、而も目下は少しも我が前進を妨害せず又軍は最も急ぐ場合に於いて尚且然りである(47頁)
なお、本書からの引用に際し、勝手ながらカタカナは平仮名に変換させていただく。
1891年に制定した度量衡法により、日本に於いて一里はおよそ3.927kmを指す。
よって、一日の平均行軍距離はなんと9.818km。敵の妨害が一切なく、全速力で行軍せよと上が命令を下しても、一日に10kmも進めないのだ。朝鮮の泥が如何におそるべき敵であったか、この数字ほど明確に示すものはない。
特に被害を蒙ったのは砲兵であろう。とある部隊など午前十時から午後五時まで、のべ七時間を費やして、漸くわずか一里を行進したと多門二郎は書いている。道路悉く泥濘と化し、馬は斃れ人は疲れ、夜になればその場に露営する始末。そんなありさまだからそのうちに、砲車の運搬に自分達歩兵まで動員される破目になったと。
歩兵は誠に調法なもので人数が多いから道直し、砲車の後と押し、材料運搬何でも使はれる、有り難いやら、蒼蠅いやら。(108頁)
――歩兵とは便利使いされる宿命だ。
多門二郎の苦笑する顔が目に浮かぶ。では、その「便利使い」される様子を見てみよう。
道は雨の為に沼の様になって居る所がある、砲車の車輪は深く没入する、歩兵が蟻の様に砲車に就く、銃は叉銃して背嚢は下ろす、砲車長が「砲車前へオーイ」と云ふと馬が四つ足を踏ん張る、之と同時に歩兵が「それッ」の掛声で押す、こんなことで中々進まぬ、人も馬も疲れ切ってしまう、(中略)僕は歩卒に向って、「馬を見ろ、毎日此様にして曳いて居るではないか、かうして砲兵を助けて置くと今に戦さの時に砲兵が後ろから一生懸命撃って呉れるぞ」と云うて励ました。(36頁)
涙ぐましいばかりである。
遼東半島に上陸後、南山の戦いで機関銃の洗礼を浴びた第二軍も地獄だが、朝鮮半島を北上する第一軍とてまた別種の地獄を味わっていた。
後に大日本帝国が躍起になって朝鮮半島の国土開発に取り組んだのも、この時のトラウマが与って力あるところ大だったのではなかろうか。
もう二度とあのような苦しみを繰り返すまいと、鉄道を敷き、道路を整え、海を埋め立て港を造った。結果、明治と昭和では朝鮮に於ける行軍速度に雲泥の差が生じるのである。
渋沢栄一も初めて朝鮮旅行に赴いた明治三十一年の時分には、「まるで暗黒世界に入ったような」と慄きもあらわに語っているが、日露戦争終結後の明治三十九年に三度目の訪韓を行った際には、まるで見違えたと讃嘆している。
渋沢栄一、更にこの変化を分析して曰く、
斯様に各所が面目を改めたと申し上げて見ますると、即ち朝鮮が大層盛になったかのやうに聞えるが、退いて能く考へて見ると、朝鮮がさまで盛になったのではなくして、詰り日本の繁盛が溢れて朝鮮に流れて来て、吾々が朝鮮に於て盛になったと云うて宜しい。朝鮮と云ふ国は余り大なる変化は為さぬのであると云はなければなりませぬ。(『渋沢男爵実業公演 坤』124頁)
目下、『予ガ参加シタル日露戦役』は本の中ほど、遼陽会戦まで読み進んでいる。後の中将、多門二郎は敵弾に顔を撃ち抜かれ、鼻をぶらぶらさせながら包帯所に向かったところだ。
私はどんどんこの人が好きになってきた。またいずれ、記事を書くこともあるだろう。
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