猫――
猫は愛情深い生き物だ。
そんなことは皆知っている。
ドイツの動物学者アルフレート・ブレームは、この特徴を証明すべく種々の実験をこころみた。
例えば猫が子を産んで、その哺乳期間中に別の動物の子をあてがってみる。
すると犬・兎・狐・リス、果てはネズミの子だろうと、猫は少しも自分の子と分け隔てせず、すぐさまこの継子を舐め廻して、乳房をふくませて、出来るだけ温めて、まめまめしく世話を焼いてやったという。
ことほど左様に、猫は母性的ないきものだ。
しかしかくまで愛情深い母猫が、ある日突然我が子に対する扱いを一変させる
所詮は内分泌腺に支配される畜生に過ぎないとみるべきか? ――いいや否、否、断じて否。
むしろこうであればこそ、猫は真に母性的ないきものであると言えるのだ。
とかく近年、「母性」というものを勘違いした輩があまりにあまりに多過ぎる。この言葉をなにか、自分を無条件で全肯定してくれる都合のいい女を表すのに利用している気がしてならない。
全く以って冗談ではない。ただ甘やかすだけの母性愛なぞ中途半端な出来損ないだ。いい歳をして、そんなものをありがたがる野郎共の気が知れない。底に凛冽としたものが流れていなくて何が母性か。
そこをいくと伊藤博文の母親などは、流石に後の「今太閤」を産み育てただけあって、実に立派な人だった。
博文がまだ、軽卒伊藤弥右衛門の株養子となったばかりのことである。武家とは言い条、身分はなお賤しく、生計にも余裕がなかったために、幼い博文はさる家へと若党奉公に出だされた。
で、ある冬の日、そこの主人が他家に赴き長々と用談に耽っていると、天候にわかに変じ地面は泥土と化したため、先方の履物を拝借して帰宅した。当然借りっぱなしというわけにはいかず、翌日これを返却し、かつ己の預け置いた履物を受け取ってくるよう若党の博文に命じたのである。
博文は唯々諾々と従った。
先方の宅を伺い、礼を申し述べて無事物品の交換を済ませたまではいいものの、折悪しくも天候再び変じて雪である。
寒さは身を切るようだった。唇は紫色を呈し、四肢は凍えて勝手な震えが止まらない。たまりかねた博文は帰路の途上、すぐそばに実家があるのを奇貨として、しばしの暖を取ろうとした。
ところが家門を入れば、こは如何に。待っていたのは容赦なき、母からの叱責に他ならなかった。
「主命を奉じて他家に使いしたる途中、寒気に恐れて家門に入るとは何たる不心得ぞ」
そう叱り飛ばすや、一杯の湯だに与えずして我が子を風雪吹きすさぶ門外へと再び放り出したのである。
一見、血も涙もない所業であろう。
しかしこれこそ武家の女というもので、これだからこそ後の「今太閤」伊藤博文公爵閣下はあったのだ。げにや艱難汝を玉にす、伊藤公の御母堂は「叱る」と「怒る」の区別がついて、しかもそれを適切に行使できる女性であった。
幕末、伊藤公とは敵対関係にあったものの、会津や二本松に代表される奥州武家の女たちにも同じ血潮の脈動が感得できる。
「腹の切り方は知ってゐる筈だね、縛り首にはなってくれるな、敵の大将と
二本松少年隊の一員、若干12歳の久保豊次郎の出陣に際して母がかけた言葉である。
この言葉を
母の言いつけは守られた。
人間性を疑われるのを承知の上ではっきり言おう。
私はこういうのが好きだ。
本当に、シンから美しいと思う。
精神の美しさとは、すなわち虚飾の美しさ。しぜんじねんに迸り出る情動を、抑えつけてこそ光るもの。有り体に言えば痩せ我慢の中にこそある。
だから私は、虚勢すら張れなくなって身も世もなく女の膝に縋りつく男が心底醜く思えてならず、いっそ見るのも厭なのだ。軽蔑以外のどんな感情も湧いて来ない。同情? 共感? 冗談ではない。アレに自己投影するくらいなら梁に麻縄をひっかけて首でも括った方がまだました。
安らぎは受け取らぬと天国で割腹した強化外骨格「零」の姿が懐かしい。男子たるの亀鑑であろう。とかく近年、ああいう「男惚れする漢」が減少したのは嘆かわしい限りである。
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