「空から石が降ってくるなどということより、あのふたりのヤンキーの先生がたが嘘をついているというほうがまだ信じやすいね」
アーサー・C・クラークの著書、『神の鉄槌』29ページからの引用である。
クラークはこの、後に映画『ディープ・インパクト』の原案ともなった古典SFの序盤に於いて、隕石にまつわる迷信の歴史を滔々と書き並べている。
曰く、古代ではどの神が落としているのかという意見の相違こそあれ、天から降り来る岩石の存在はよく知られたものであり、鉄という貴重な金属の塊がまじっていたことからしばしば崇拝の対象ともされていた。
それが近世という『理性の時代』に入るや、こと隕石に関しては、逆に真理から遠ざかる。
驚くべきことに、近世の一時期にあってはむしろ、隕石の存在を否定する論こそ圧倒的に優勢だったと彼は説くのだ。
事実、フランス科学アカデミーは、隕石が本来は地球起源のものだという説明を採択した。天空から由来したように見えるとしたら、それは雷に打たれた結果だというのだ――なんともわかりやすい誤解だった。(30頁)
そういえば、アリストテレスも隕石なんぞは強風に巻き上げられた地上物だと言い切って、宇宙からの飛来説を否定していた。なにやら頭のきれる者ほど、この陥穽にひっかかっていた観がある。
が、量子力学の育ての親たるニールス・ボーアの有名な言葉を借りるなら、
「きみの理論は気違いじみている――だが真実はもっと気違いじみたものだ」
これがぴったり当て嵌まるだろう。
『神の鉄槌』からの引用、更に続ける。
そのためヨーロッパの博物館の館長たちは、それまで無知な前任者たちが根気よく蒐集してきた無価値な岩石を廃棄してしまった。(同上)
なんと勿体ないことを、と、思わず天を仰ぎたくなる。
科学史上最高に愉快な皮肉のひとつは、そのフランス・アカデミーの発表からほんの数年後、パリ郊外数キロの地点に膨大な量の隕石が雨のように降り、しかもそこに非のうちどころのない目撃者がいたことである。アカデミーはいそいで前説を撤回しなくてはならなかった。
それでもなお、隕石の重要さとその潜在的な価値が認められたのは、宇宙時代の夜明けが訪れてからのことだった。何十年ものあいだ科学者たちは、隕石が地球の地形の形成に相当な寄与をしてきたことを信じようとせず、否定すらしてきた。ほとんど信じられないことだが、二十世紀にはいってもなおしばらくのあいだ、地質学者の中には、アリゾナの有名な隕石孔は命名の誤りであって実は火山活動の結果だと主張する者もいたのだ!(同上)
迷信とはげに抜き難きものであり、その根深さは馬鹿にならない。
これはひとり隕石に限ったことでなく、化石に於いてもそうだった。
化石と一口に言ってもいろいろあるが、特に貝の化石などはたとえ海から遠い内陸部に埋まっていようと、その形状が直ちに海産の貝類を連想させるものであるため、古代人も早いうちからこれに気付き、この不可解な現実をなんとか解釈すべくあれこれ想像をたくましくしている。
特に紀元前のギリシャ人達は個性的で、これを地球が有する「造化の力」――その暴走ないし失敗例と説明している。
つまり本来完全なる貝になるはずが、何らかの理由で――たとえば本来貝が在るべき海中でなく、地上にその力が発現されてしまったせいで――造化作用が途中で止まり、形のみ貝で中身は石という失敗作になったのだ、という具合である。
この説はその後、長いこと欧州に行われた。
中世に入るとさすがに化石をかつて生活した動植物とみなす者とてちらほら現れはじめたが、しかしそれらが何故に海から程遠い内陸部でも見つかるのかという謎については、みな等しく旧約聖書に答えを求めた。
すなわち、ノアの大洪水である。
150日間続いたとされるこの大洪水の期間中に、元々海中で暮らしていた生物どもが時を得顔でかつての陸地にまで進出し、ところがその後、急速に水が退いたため、あえなく地上に取り残されてそのまま死んで、やがて骸が化石したというわけだ。
なるほどこれなら、山から貝の化石が掘り出されても不思議ではない。
教会も聖書の記述の正当性が補強されたと、さぞや喜んだことだろう。人間の想像力は、ときにひどく可憐ですらある。

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