修文講武是良漢
胸中所盡無他策
欲韓山草木蘇生
伊藤博文の
明治三十八年、初代韓国統監として実際に彼の地に渡る際、吟じたものであるという。
(Wikipediaより、統監府庁舎)
藤公、このとき六十五歳。
既に還暦を過ぎていながら、その精神は些かも張りを失っていない。前途に控える大仕事への、盛んな意気込みが伝わってくる。
しかしながらその一方で、藤公の此度の挑戦を「危険な火遊び」と看做す手合いも少なくなかった。当代きっての従軍記者で探検家、ロシアに異常な関心を燃やすジョージ・ケナンの如きなど、
「朝鮮王は独特の陰謀性を持つ上に、無神経で曖昧で虚栄心に満ちた男だ。伊藤公のような公正な文明流の政治家は決まって篭絡されるに違いない」
と、「抜き身」にもほどがある予測を敢えてしている。
さりとて「抜き身」であるだけに、ケナンの言葉は一定の真理を穿っていたとも言えるであろう。実に伊藤博文は――否いっそ大日本帝国そのものは――、関わるべからざるモノに関わり落花凋落の憂き目に遭った。
晩年の伊藤に関しては、こんなエピソードも伝わっている。
統監を辞して間もなく伊藤は満洲へ行くことになった。これは支那の西太后が米国の力を借りて日本の勢力を押へんとしてゐるし、露国の軍人仲間はいつか雪辱戦をと策動してゐるので、伊藤を世界の大舞台に立たせて日本の東洋政策を完成しようとの腹で、後藤新平が伊藤を動かしたので、四十年の五月に厳島で後藤は伊藤に会って、三日三晩に亘ってこのことについて談話を交へた。両人とも豪壮の人で胸襟を開いて談論した。内情を知らぬ女中は「何て酒癖の悪い人かしら、毎晩毎晩酒を飲んでは喧嘩をしてゐる」と驚いたさうである。(昭和十四年『躍進日本 事件と人物』79頁)
(厳島)
十六歳も年下で、エネルギッシュなこと全身の毛穴という毛穴から蒸気を噴かんばかりとされた後藤新平を相手どり、がっぷり組んで些かも引けを取らなかった点、伊藤の精気は相も変わらず絶倫至極なままだった。
老い知らずとは、伊藤のためにあるような言葉ですらあったろう。
安重根の大馬鹿野郎に無理矢理魂の緒を引き千切られねば、その後どこまで栄えたことか。あるいは尾崎行雄のように、九十まで現役で政治をやっていたかもしれない。そうなれば日本の運命もよほど変わったに違いなく、この点想像の余地は広い。
ここまでお読みいただき、誠にありがとうございます。
この記事がお気に召しましたなら、どうか応援クリックを。
↓ ↓ ↓