穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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2020-09-01から1ヶ月間の記事一覧

シベリアの夢、薄れぬ記憶

「シマッタ、ここはシベリアだ。俺は確かに日本へ帰っていたはずなのに、またシベリアに来ている。何とかして日本に帰らねば……遥か向うを見ると収容所が点在している。そして多くの日本人がこちらを見ている。戦後三〇余年、日本は随分と変った。このことを…

親愛なる同志スターリンへ ―ラーゲリから感謝の寄せ書き―

「民主化教育」に名を借りた洗脳事業を抜かしては、シベリア抑留というものがまったく分からなくなってしまう。 捕虜にされた日本人将兵57万。 ソビエト連邦は単に彼らを都合のいい労働力としてこき使うにとどまらず、この中から一人でも多くの「革命戦士」…

戦勝国民の言行録

「支那は日本と一〇年戦い、米国でさえ五年戦った。ソ連を見よ。宣戦布告からわずか三日で日本は降伏した。ソ連軍は世界一強く、ソ連人は世界で一番偉い人種である」(『シベリア抑留体験記』194頁) 奥地のとある収容所にて、赤軍兵士が抑留者たちに言い放…

夢路紀行抄 ―シタタカ毒虫―

夢を見た。 有名人の夢である。 始まりは、確かショッピングモールの通路であった。 全体的に黄色みがかった配色で、ただもうそこに居るだけで、細胞が踊り出すような、陽気な気分になってくる。 建築の妙と言うべきだろう。 幅も広い。重戦車でも悠々走行で…

隼の特攻 ―占守島血戦綺譚―

三十余年を過ぎてなお、その情景は細川親文軍医のまぶたに色鮮やかに焼き付いていた。 敗戦の前日、昭和二十年八月十四日の朝早く。彼の勤める第十八野戦兵器廠チチハル本部の営門に、魔のように飛び込んだ影がある。 将校一人と兵卒三人、いずれも埃まみれ…

旧足和田村探訪記 ―西湖いやしの里根場―

富士五湖が一つ、西湖の名は、長く絶滅種と目されていた「幻の魚」クニマス発見の功により、一躍全国に響き渡った観がある。 それ以前は最大(・・)でも最深(・・)でもないゆえに、これといって特色のない、人々の意識に上りにくい場所だった。 湖名の由…

霊威あふるる和歌撰集 ―「神術霊妙秘蔵書」より―

力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女の仲をも和らげ、猛き武士の心をも慰むるは、歌なり。 古今和歌集「仮名序」からの抜粋である。 王朝時代の貴族らは、和歌の効能というものをこんな具合に見積もっていた。 要するに和…

贖罪と逃避の境界 ―あるトラック運転手の死―

事のあらましは単純である。 子供が轢かれた。 トラックの車輪と地面との間に挟まれたのだ。 無事でいられるわけがない。 搬送された病院で、翌日息を引き取った。 運転手は、真面目で責任感の強い好漢だった。 それだけに罪の意識もひとしおだったに違いな…

切腹したキリスト教徒 ―排日移民法への抗議―

大正十三年五月三十一日の陽が昇るや、榎坂にある井上勝純(かつずみ)子爵の屋敷はたいへんな騒ぎに見舞われた。 庭に、異物が出現している。 死体である。 白襦袢に羽織袴を着付けたひとりの中年男性が、腹を十文字に掻っ捌き、咽喉を突いてみずからつくっ…

続・太平洋風雲録 ―白船来る―

※2022年4月より、ハーメルン様に転載させていただいております。 果然、蜂の巣をつついたような騒ぎになった。 日本のみならず、アメリカ社会までもが、だ。 ――宣戦布告に等しい所業ではあるまいか。 主力艦隊を太平洋側に廻航するということは、である。 ――…

太平洋風雲録 ―明治末期の日米間危機―

※2022年4月より、ハーメルン様に転載させていただいております。 日米開戦の危機というのは、なにも昭和に突入してからにわかに騒がれだした話ではない。 満州事変の遥か以前、それこそ明治の昔から、大真面目に論議され検討され続けてきたテーマであった。 …

アメリカ草創期の小話 ―エンプレス・オブ・チャイナ号―

ワシントンの誕生日にまつわる小話でもしてみよう。 平岡熙の例の逸話に触発されての試みである。 ジョージ・ワシントン。 「アメリカ建国の父」として不朽の名を青史に刻んだこの人物が誕生したのは、1732年2月22日、今で云うバージニア州ウェストモアラン…

長禄の江戸、慶長の江戸 ―古地図見比べ―

かつての江戸の民草は、台風の接近を察知するとはや家財道具を担ぎ出し、船に積み込み、その纜(ともづな)を御城近くの樹々の幹に繋いだという。 高潮来れば、この一帯は海になる。 狂瀾怒涛渦を巻き、人も家も噛み砕いては沖へと浚う荒海に、だ。 無慈悲な…

平岡熙ものがたり ―春畝と吟舟―

まだある。 洋行を通して平岡熙が積み上げたモノは、だ。 人との縁も、彼はこのとき手に入れた。 平岡がまだボストンで、素直に学生をやっていたころ。総勢107名もの日本人が、この大陸にやって来た。 世に云う岩倉遣欧使節団のことである。 (Wikipediaより…

平岡熙ものがたり ―その血筋―

そも、平岡の家系をたどってみると、その遠祖は家康公が関八州に入府した折、江戸城御掃除番を担当していた平岡庄左衛門まで遡り得る。 「河内国に鎮座まします平岡大明神に縁因(ゆかり)ある者」 と称したらしいが、なにぶん戦国時代の話、どこまで信用し…

平岡熙ものがたり ―巾着切りか大老か―

大正帝が未だ明宮(はるのみや)殿下と呼ばれていた年少の折。 御巡覧あそばされた鉄道局にて、特に脚を留め置かれた一室があった。 その部屋には、未来(・・)が溢れていたのである。日本どころか米国にも未だ存在しないであろう、新発想の機関車・客車・…