かつての江戸の民草は、台風の接近を察知するとはや家財道具を担ぎ出し、船に積み込み、その
高潮来れば、この一帯は海になる。
狂瀾怒涛渦を巻き、人も家も噛み砕いては沖へと浚う荒海に、だ。
無慈悲な自然の暴威に対し、せめてもの抵抗を試みるならそれしかなかった。家康公が入府して、土地自体に抜本的な改革を施すまでこの
当時の江戸がどれほど海にほど近く、そこいらじゅう沼沢だらけの湿った土地であったか示す、格好の逸話であるだろう。このことについては、既に幾度も触れてきた。
近頃
何はともあれ、まずはこれを見て欲しいのだ。
長禄年間、太田道灌が築城してから間もない江戸の地図である。
ところどころに漁村が点在しているほかは、一面渺茫たる野であった。
城内・含雪亭の欄干から外を見はるかした道灌が、
富士の高嶺を軒端にぞ見る
と詠んだのも蓋し納得の風景である。
もう一枚、こちらは慶長年間の江戸の地図。
既に神田山は切り崩されて、その土砂で埋め立てが行われた後だろう。街らしい姿が整いつつある。屋敷地の他にも、門に竹藪、橋、川筋と、記載は多岐に及んで精妙である。
この地図の元々の持ち主は、下総国松戸宿――現在の千葉県松戸市松戸本町――にて薬商を営んでいた山下友右衛門なる男。祖父の代から当家に受け継がれた品であり、更にその祖父・市兵衛は小田原に住む山谷某なる医者に請い、写させてもらったのがはじまりという。
当時に於ける地図の価値は、現代人の想像力では測り難い、途轍もないものがある。
良き地図を得る事が、戦に於ける勝敗を決定付けることとてあった。ましてや慶長年間といえば未だ大坂に秀頼在りて、幕府の地盤定まり切らぬ不穏な時代。その最中に江戸という、徳川の本拠地の詳細な地図を描くというのは、命の危険を覚悟しなくば到底やれるものでない。
誰が、何の目的でこれの「原典」を描いたのか。その力の入りようといい、結局は市井の棚の奥深くに隠されていたことといい、想像するとひどく浪漫を掻き立てられる。
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